「性の多様性を受け入れる」のと「スポーツ競技で公平性を保つ」のは別の話
性は生なり! 熱戦が繰り広げられたパリ五輪。これまでにないインクルーシブな競技大会を目指しています。「いんくるーしぶ」と聞いて「はて!?」となる、横文字にとんと弱い私です(苦笑)。
簡単に言うと「誰も仲間外れにしない」とか「みんないっしょに」という意味。当然、ジェンダー平等も大会理念のひとつに掲げられています。史上初の出場枠の男女同数が実現され、選手村には新たな試みとして育児室が設置され、アスリートが競技と子育てを両立できる環境が整えられています。開会式も多様性の尊重が感じられる演出が目を引きました。
一方でトランスの女性の競技出場の基準は、前回の東京五輪では男性ホルモンのテストステロン値が一定期間、基準値以下であることでしたが、パリ五輪では12歳になる前に性転換を完了した選手に限るとの基準が設けられました。男性として思春期の変化を経験したことに起因する不公平を回避するためです。
確かに、テストステロン暴露により生物学的にはオス化の影響が大きいので、運動能力が一般女性より優れている可能性は高いでしょう。亡き父(熊本悦明)も現在のテストステロン値が基準値をクリアしていても、それ以前のテストステロンの影響で筋力や体力が増大していると指摘していました。
また、性自認にも揺らぎがあり12歳までに性適合手術を決断(本人も親権者も)し、かつ受けることが可能な人がどれぐらいいるか疑問です。性の多様性を受け入れるのとスポーツ競技で記録を争う場面で公平性を保つのは別の話だと感じます。