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百回の弁解よりも一回の行動【野球バカとハサミは使いよう#29】

獲得した勲章は色あせない

 人間はなにか勲章を手にするためだけに仕事をしているわけではない。しかし、だからといって勲章を手にできそうなチャンスがあるのに、それを逃すのもおかしな話である。

 これはプロ野球では個人タイトルのことだろう。タイトルのために野球をやっているわけではないが、チャンスがあるなら狙いにいくのが人情だ。

 かつて1980~90年代にかけて広島の二塁手として活躍した正田耕三が、その良い見本だった。正田は身長170センチという小兵だったためか、入団当初は決して目立つ選手ではなかったが、3年目の87年にレギュラーになると、大きな勲章を手にするチャンスが訪れた。この年の正田は巨人・篠塚利夫(その後、和典に改名)と中畑清、さらに中日・落合博満といった大物選手たちと首位打者争いを演じたのだ。

首位打者を獲得した87年、バント練習に精を出す正田(87年6月、広島市民球場)

 当時の正田は無名の若手だったため、普通ならライバルたちが大物すぎて、気後れしても不思議ではない。しかし、実際の正田はなりふりかまわず首位打者を目指した。2番という打順を利用して犠打数を増やすことで、なるべく打率を落とさないように努めたのである。

 しかも、正田はライバルたちの打率を見ながら、ちょこちょこ欠場を挟んでまで首位打者にこだわった。そして最終戦を前にした時点で、打率トップの篠塚(3割3分3厘)に1厘差の2位。さらに最終戦の第1打席でセーフティーバントを決めて、篠塚と同率の首位打者を獲得した。

 当然、この戦法は批判の対象になった。なにしろ無名の若手がひきょうな手で、巨人のスターと肩を並べたのだ。「これは本当の首位打者ではない」と書きたてる新聞もあったほどだ。

 しかし、だからといって獲得した勲章が色あせるものではない。実際、正田はこれによって広島の看板選手の一人として認知されるようになり、その翌年に今度は打率3割4分で単独首位打者(2年連続首位打者)に輝いたことで、球界を代表する安打製造機に成長した。

広島の正田耕三

 これは野球に限らず、すべての仕事で活用できる極意だ。仕事をしていて勲章を手にできることなど、そうそうない。だからこそ、そういうチャンスに出合えたら、どんな手段を使っても貪欲に獲得するべきである。

 もしかしたら、その貪欲さを批判されることもあるかもしれないが、そんなものは年月がたてば消えてなくなり、あとは勲章だけが残ることだろう。そして、そうやって得た勲章は大きな自信となり、さらなる自己成長につながっていくはずだ。

2打席連発で〝疑惑〟を払拭

 大杉勝男といえば、1960~80年代にかけて東映フライヤーズやヤクルトスワローズなどで活躍した球史に残る長距離砲だ。史上初となるセパ両リーグでの通算1000本安打を達成し、通算2228安打、486本塁打を記録。若手時代に飯島磁弥コーチから「月に向かって打て」のアドバイスを授かったことで、大打者への階段を駆け上がったことはあまりに有名だ。

ヤクルトの大杉勝男

 そんな大杉は東映時代から野球ファンにはよく知られていたが、当時の東映はチーム成績が悪く、テレビ中継もめったになかったため、全国的な知名度を得られなかった。

 しかし、ヤクルト移籍後の78年に初のリーグ優勝を果たしたことで風向きが変わった。テレビ中継のある日本シリーズ(対阪急)でもMVPを獲得する活躍を見せ、ヤクルトを日本一に導いたことで全国的なスターとなったのだ。

 しかも、その日本シリーズでの大杉はいまだ語り継がれる伝説の主役となった。3勝3敗で迎えた第7戦でのことだ。

 ヤクルトが1対0でリードしていた6回裏、大杉は阪急の足立光宏の内角球をとらえ、打球はレフトポール際のスタンドに飛び込んだ。これを線審は本塁打と判定したのだが、それに納得いかないのが阪急・上田利治監督。同監督は強くファウルを主張して、なんと1時間19分にも及ぶ猛抗議を続けたのだ。

日本シリーズ第7戦、大杉の本塁打を巡り抗議する阪急(78年10月、後楽園球場)

 しかし、それでも判定は覆らず、大杉の本塁打は認められたのだが、同時に“疑惑”が生まれたことも確かだ。このまま試合が終わっては、大杉にとって後味の悪いものになるだろう。

 そこで圧巻だったのが、8回裏に回ってきた大杉の次の打席だ。ここで大杉は、7回からリリーフ登板した阪急のエース・山田久志から、今度は文句のつけようのない完璧なホームランをレフトスタンドに叩き込み、見事に疑惑を払拭したのである。

 これはサラリーマンにとっても参考になる疑惑払拭術だ。たとえば、ある仕事において自分が書いた企画書がたまたま他の同僚の企画に酷似していて、上司から盗作疑惑の目を向けられたとする。そんなとき、多くの人は疑惑を晴らすために自身の正当性を主張するだろう。誰だって、ぬれぎぬを着せられたままにはしたくないはずだ。

 しかし、本当の意味で疑惑を払拭したければ、下手に言葉で弁解するのではなく、次の仕事で完璧な結果を残したほうがはるかに説得力を帯びる。百回の弁解よりも一回の行動。そうすれば、妙な疑惑などおのずと晴れていくものである。

山田隆道(やまだ・たかみち) 1976年大阪府生まれ。京都芸術大学文芸表現学科准教授。作家、エッセイストとして活躍するほか大のプロ野球ファンとして多数のプロ野球メディアにも出演・寄稿している。

※この連載は2012年4月から2013年9年まで全67回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全33回でお届けする予定です。

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