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『オッサンの壁』をオッサンが読んでリアルな壁にぶつかる

サッカー界で輝くオジサン

先日行われたサッカー日本代表対ブラジル代表のフレンドリーマッチ。結果は惜敗でしたが、それ以上に驚いたのが、世界最強といわれるブラジル代表の中にダニエウ・アウベス先輩の名前があったことでした(しかも先発出場!)。攻守にわたって走力が求められるサイドバックを39歳にして務めることはハンパではありません。もはやオジサンと言われてもおかしくない年齢であるアウベス先輩が今なお世界最高峰で戦う姿を見て、「私もまだまだ頑張らねば」と奮い立ちました。

南野を止めるアウベス先輩(22年6月、国立競技場、カメラ=菊池六平)

サッカー界でレジェンド級のオジサンといえば、我らがキングカズに触れないわけにはいきません。今年のUEFAチャンピオンズリーグを制したレアル・マドリード所属のクロアチア代表MFルカ・モドリッチ(36)が決勝戦の前のインタビューで「いつまでプレーする?」と聞かれ、「わからない」と笑いつつ「50歳。日本のミウラのようにね」と笑顔で答えたことがニュースとして世界中に報じられました。キングカズは世界のトッププレーヤーにとってもあこがれの存在なんですね。

オジサンとオッサンの違い

さて、ここまで輝くオジサンについて書いてきましたが、残念ながら輝けない、あるいは輝きを失ったオジサンも世の中には存在します。個人的な感覚ではあるものの、オッサンと呼ばれるときは特にそのニュアンスが強いように感じます。あえて並べるなら「オジサマ」(ルパン三世「カリオストロの城」でクラリスがルパンに使う感じ)>「イケオジ」(もはや死語かも)>「オジサン」>「オッサン」といった感じでしょうか。自分もオジサンと言われる年齢となった今、「いったい他人からはどのように見えてるんだろう?」と考えながら本屋をブラブラしていると、『オッサンの壁』(講談社現代新書)という本が並んでいました。

毎度おなじみ本を読んで書きます

著者は毎日新聞で論説委員を務めている佐藤千矢子氏。全国紙で女性として初めて政治部長になった方です。全国紙とスポーツ紙は毛色が違うとはいえ、同じ記者職としては大先輩。どんなことが書かかれているのか気になって読みました。佐藤氏は「はじめに」でオッサンについてこう定義します。

 私が思うに「オッサン」とは、男性優位に設計された社会で、その居心地の良さに安住し、その陰で、生きづらさや不自由や矛盾や悔しさを感じている少数派の人たちの気持ちや環境に思いが至らない人たちのことだ。いや、わかっていて、あえて気づかないふり、見て見ぬふりをしているのかもしれない。男性が下駄をはかせてもらえる今の社会を変えたくない、既得権を手放したくないからではないだろうか。
 男性優位がデフォルト(あらかじめ設定された標準の状態)の社会で、そうした社会に対する現状維持を意識的にも無意識のうちにも望むあまりに、想像力欠乏症に陥っている。そんな状態や人たちを私は「オッサン」と呼びたい。だから当然、男性でもオッサンでない人たちは大勢いるし、女性の中にもオッサンになっている人たちはいる。

佐藤千矢子『オッサンの壁』(講談社現代新書、2022年、13ページ)

む、むずかしすぎる…、正直そう思いました。「男性優位に設計された社会」は歴史的な背景を振り返ればわかりますし、今の世の中に生きづらさを感じている人たちがいることもわかります。しかし、「男性が下駄をはかせてもらえる」という表現が必要以上に男性すべてを敵に回してしまっているような気がするのは私だけでしょうか。佐藤氏は直後で「男性でもオッサンでない人たちは大勢いる」とフォローしていますが、それはつまり「男であるだけで下駄をはかせてもらって申し訳ないねぇ…」と思っている男性が大勢いるという前提で成り立っているのでしょうか。オッサンになりたくないと思っている私はいきなりこの〝下駄発言〟でつまずきました…。

男社会のリアル

とはいえ転んだって擦りむいたって情報をとってくるのが記者の仕事。どんどん読み進めるしかありません。第一章「立ちはだかるオッサン」では一般紙の記者なら避けて通れない夜討ち朝駆けがいかに激務だったかを振り返ります。

果たしてこうした新聞記者の地方機関での仕事に女性が向くのかどうかと聞かれれば、男女とも、およそこんな大変な仕事には向かない人のほうが多いのではないかと思う。男性でも体力的にきつい仕事で、女性の場合は体力差があって、なおさら厳しいものがある。私は比較的、体力があるほうなので耐えられたが、それでも盆と正月の休みに実家に帰ると、とたんに嘔吐して数日間、寝込んでいた。

佐藤千矢子『オッサンの壁』(講談社現代新書、2022年、34ページ)

すごい実体験。しかし、実家に帰った途端に嘔吐して寝込むというのは明らかに限界寸前だったわけであり、新聞記者の仕事がブラックだと告白しているようにも見えてなんだか心配にもなります(苦笑)。第二章「ハラスメントの現場」は衝撃的でした。おっぱい好きな大物議員を含め、女性記者たちが語る事例は今だったら一発アウトな事例ばかり。セクハラという言葉が浸透する以前から働いていた女性たちがいかに傷つけられてきたかが書かれ、今なおなくならないセクハラ問題の根底を探っています。

本書のタイトルになっている「オッサンの壁」について記述されるのが第四章です。佐藤氏は選択的夫婦別姓の問題に切り込みます。

 立法府で重い責任を負う国会議員たちが、この問題に賛成するか反対するかは、私にとって「オッサン」(オッサン予備軍)かどうかを判断するリトマス試験紙のような役割を果たしている。だから、こだわらざるを得ない。男性の既得権、もっとやわらかく言えば、男性が生まれながらにはいている「下駄」に気づかず、男性優位社会を当たり前のこととして守ろうとする「オッサンの壁」が、多くの人たちの幸せを奪っているのではないだろうか。選択的夫婦別姓問題はそのわかりやすい例のように思う。

佐藤千矢子『オッサンの壁』(講談社現代新書、2022年、185ページ)

何のしがらみもなく私個人の意見を申し上げると、選択的夫婦別姓の導入に賛成の立場です。「家族の絆」や「日本の伝統」が崩れると主張する声がありますが、夫婦別姓を選択した人だけ家族の絆が壊れるとは到底思えないからです。この点で私は佐藤氏が主張する「オッサン」からは外れるのですが、「オッサンの壁」だけが幸せを奪っているだけではないとも思います。

オッサンだけが悪いのか?

最近話題になっている論文「マウンティングエピソードの収集とその分類:隠ぺいされた格付け争いと女性の傷つき」を見てみましょう。ここでは女性同士の対立構図がこう説明されています。

森裕子・石丸径一郎(2021年)マウンティングエピソードの収集とその分類:隠蔽された格付け争いと女性の傷つき、34ページ

それぞれのカテゴリーの関係は,ある部分では一方 に勝てるが,ある部分では負けるというように,膠着した三すくみの状態にあると考えられる。具体的には,<伝統的な女性としての地位・能力を誇示する>女性は,夫と結婚し子どももおり,安定した生活を送っているといえるが,<自立した人間としての地位・能力を誇示する>女性からみれば,夫や子どもの存在に縛られ,自由な生活を送れていないともいえる。こうした状態は,女性役割の3つの側面が連動しない状態にあるために発生していると考える。
男性役割の場合は,各側面は連動している。例えば,職業上の成功と達成と,肉体的・精神的強さと独立心(鈴木,1994)は矛盾せず,仕事でいい結果を出しながら,健康的な肉体を手にすることはできる。そのため,男性のあいだでみられるマウンティングは,シンプルなものになり,すぐに勝負がつくか,あるいはマウンティングそのものが起こりにくいと考えられる。 一方で女性では,3つの側面が連動しないため,競争や格付け争いは複雑化する。例えば,従順な専業主婦であると同時に,バリバリと仕事をこなすことはできないし,1 人で生きるのに十分な経済力を身につけつつ,女性としての性的魅力をアピールし,男性の経済力に頼って生きていくことはできない。そのため,ある側面では負けるが,ある側面では勝てるという状況が頻発する。このようなことから,男性同士よりも女性同士におけるマウンティングが多いようにみえるのではないかと考えられる。

森裕子・石丸径一郎(2021年)マウンティングエピソードの収集とその分類:隠蔽された格付け争いと女性の傷つき、34~35ページ

女性同士のマウンティングそのものを問題にしたいのではありません。どのように働きどのように生きるかという問題が女性にとっては非常に悩ましいことであることがわかります。おそらく女性側も「オッサンの壁」をどう破壊すべきかで一致していないのです。佐藤氏が「はじめに」で述べたように「オッサンの壁」を守っているのは男性だけなく女性も含まれているのだとしたら、「壁」を守る人を批判すればいいのであって、「オッサン」という言葉をそこまで貶める必要があったのだろうか。私にはまだまだわからないのでいつかオジサマになれるよう考え続けます。(デジタルメディア室・森中航)


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