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海の底に帝政ロシアの艦隊!幻に終わった500億円の財宝

 埋蔵金研究の第一人者・八重野充弘氏のコラムをnoteで復刻! たまにはこんなお話をどうぞ。

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 今回はちょっと毛色の変わった、海のお宝の話。1980年から81年にかけて、長崎県対馬沖に沈む「アドミラル・ナヒモフ号」の財宝引き揚げに一部のマスコミは大騒ぎした。

 同号は、1905(明治38)年5月、日露戦争の日本海海戦で、日本の連合艦隊に完敗した帝政ロシアのバルチック艦隊の1つで、中には大量の貴金属が積まれていたといわれ、大正の初めから断続的に潜水調査が行われてきた。しかし、船体の確認はできても、当時の技術では100メートルもの海底を探るのは容易なことではなかった。

ナヒモフ号

 1980年、最新のサルベージ技術を使って財宝の引き揚げに挑んだのは、日本海洋開発。日本船舶振興会の笹川良一会長をスポンサーにつけ、大がかりな潜水調査を開始した。まもなく、後部船室付近で1本の金属のインゴットが見つかる。長さ29センチ、幅8センチ、高さ4センチ、重さ約10キロの、きわめて純度の高いプラチナで、少なくとも1000本は積まれていると発表された。

 当時のある全国紙を見ると、社会面のトップに、「あった!プラチナ鋳塊1000本、500億円の輝き」という文字が躍っている。だが、筆者は疑問に思ったので、東京湾の埋め立て地にある「船の科学館」に展示されているのを見に行ったところ、明らかに鉛だった。プラチナなら、比重が21.4だから、そのサイズであれば重量は20キロ近くになるはず。

 結局、真相は隠されたまま、数十億の費用をかけて調査は続行され、最終的に、日本海洋開発は倒産、社長は不審死するという結末に。現在、対馬の飲み屋で、時折そのことが話題にのぼることはあるらしいが、再挑戦しようとする者は出てこない。

引き揚げられた16本の金属塊は、プラチナではなく、すべて鉛だった。船体を安定させるバラストだったと思われる

 やえの・みつひろ 山に、海に、眠れる財宝を探して47年!のトレジャーハンター、作家。日本トレジャーハンティング・クラブ代表。1974年、熊本県天草下島での財宝探しを開始。以後、日本各地の埋蔵金伝説を求めて全国30数か所を歩き、これまで実際に発掘を行った場所も10か所以上にのぼる。財宝探しや埋蔵金に関する著書多数。公式HPでは徳川埋蔵金を題材にした小説「リカバリー」も公開されている。


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