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「度胸7割、実力3割」で長く活躍した男【野球バカとハサミは使いよう#32】

勝負度胸が光った安田猛

 プロ野球で一流の投手になれる条件とは、必ずしも体が大きいことや速いボールを投げられるということだけではない。例えば、1970年代に活躍したヤクルトの技巧派左腕・安田猛のように、身長170センチ前後と小柄で、ストレートの球速もせいぜい130キロにもかかわらず、長らく活躍した投手もいる。

 安田はペンギン投法と呼ばれた独特のサイドスローからの緻密なコントロールを武器に、75~78年まで4年連続2桁勝利を記録し、さらに最優秀防御率賞を2年連続(72~73年)で獲得するなど、一時代を築いた名投手だった。また、あの王貞治が最も苦手にした投手の一人としても名をはせ、当時の人気漫画「がんばれ!!タブチくん!!」の名物キャラクターとしてもファンに親しまれた。

ヤクルトの安田猛

 そんな安田の特徴は、やはりコントロールの良さだろう。それを証拠に、73年には81イニング連続無四球という今も不滅のプロ野球記録を樹立している。しかも、この記録は当時の阪神の4番打者・田淵幸一に敬遠四球を与えた直後から始まり、さらに82イニング目で再び田淵に敬遠四球を与えたことで途絶えたものである。すなわち、安田が自ら意図的に四球を与えようとしなければ、まだまだ記録が伸びていた可能性が高いのだ。

 さらに当時のヤクルト監督であった名将・三原脩(故人)によると、安田が投手として成功した秘訣は「度胸7割、実力3割」だったという。普通、目を見張るような力強いボールを投げられない投手は、強打者を前にするとついつい逃げ腰になってしまうものなのだが、この安田は勝負度胸が満点で、どんな強打者にも堂々と勝負を挑んでいく男だった。打者にしてみれば、こういう大胆不敵な投手は調子が狂うものらしい。

 三原いわく、その度胸こそが安田のコントロールの良さを生んだという。つまり、誰に対しても平気でストライクを投げられる投手だったということだ。

三原脩監督(右)の出迎えを受ける安田(1972年9月、神宮球場)

 この勝負度胸とは、サラリーマンの世界でも非常に重要なことだ。特に企画会議や外部への営業の際にはそれが顕著で、あれこれと策を練ったり、突飛なアイデアを発案したりすることより、結局は度胸こそが仕事の成否の鍵を握ることがある。

 そのアイデアや意見の質はともかく、それを堂々と会議の場で発言できる度胸。それがあれば、この世のほとんどの職場で自分のポジションを確立できることだろう。そのためには、まずは大きな声で話すということから始めてみてはどうだろうか。

若手の慣例破りを潰すべからず

 かつての日本ハムファイターズといえば、ただでさえ集客に苦労していたパ・リーグでも特に不遇な球団だった。なにしろ、北海道に本拠地を移す前は、あの巨人とともに東京ドームや後楽園球場をホームグラウンドにしながらも、巨人とは比較にならないほど影が薄い存在だったのだ。これほど不平等な“ルームシェア”はないだろう。

 しかし、そんな旧日本ハムにあって、ひときわ明るくはつらつとしたプレーを見せる小柄なガッツマンがいたことを忘れてはならない。1970~80年代にかけて、俊足巧打のトップバッターとして長らく活躍した外野手・島田誠のことだ。

 当時の島田は“巨人のいない後楽園球場”において貴重なスター選手だった。彼の売りはなんといっても全身バネのような抜群の身体能力と、ファイターズの名にふさわしい積極果敢なプレースタイル。特にスピード感あふれる走塁は球場全体を明るくする力があり、79~84年まで6年連続30盗塁以上を記録した。ちなみにこれでも盗塁王が一度も取れなかったのは、同時代に阪急・福本豊がいたからだ。

日本ハムの島田誠

 また、島田のはつらつとした積極性は、ある球界の慣例をも打ち破った。当時の球界には「そのシーズンの開幕投手が投げる第1球を打者は打ってはならない」という暗黙の了解があり、特に阪急・山田久志はそれにのっとって、毎年の開幕第1球に悠然とストライクを投げ込んでいた。これは球界の大エースならではの様式美みたいなものなのだが、島田はそれを承知のうえで、山田の開幕第1球を積極的に打ちにいったのだ。

 当然、山田はこれに怒り、島田に直々に注意したという。しかし、当時まだ若手だった島田にしてみれば、山田ほどの大投手からヒットを打とうと思ったら、そういう慣例破りも必要だと考えていた。実際、島田は「ど真ん中のストレートが来るのをみすみす逃すのがもったいなかった」と後に語っている。

 こういった慣例破りはサラリーマンの世界でも少なからずあることだ。それまで会社に根づいていた意味のない慣例を、意味がないからという理由で堂々と破ることができるのは自由奔放な若手社員の特権であり、それがあるからこそ企業の新陳代謝も活発になる。

 したがって、もし会社に慣例破りをする若手が現れたとき、上司は簡単に彼を責めてはならない。寛大な心でその言い分に耳を傾けてみると、企業の成長につながる新しい価値観に出合えるかもしれないのだ。

リーグ優勝を決め祝勝会でビールかけを楽しむ大沢啓二監督と島田(1981年9月、後楽園球場)

山田隆道(やまだ・たかみち) 1976年大阪府生まれ。京都芸術大学文芸表現学科准教授。作家、エッセイストとして活躍するほか大のプロ野球ファンとして多数のプロ野球メディアにも出演・寄稿している。

※この連載は2012年4月から2013年9年まで全67回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全33回でお届けする予定です。

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