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【プロ野球】「野球バカとハサミは使いよう」山田隆道著

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“球春到来”に合わせ、2012~13年にかけて東スポ紙面連載された往年のプロ野球選手から処世術を学ぶコラムを復刻します。選手のエピソードから導かれる教訓は日々の生活に役立つこと間…
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#山田隆道

近鉄移籍で顔つきまで変わった投手【野球バカとハサミは使いよう#34/最終回】

トレード移籍で放出されても謙虚に投げ続けた 香田勲男といえば、1980年代後半~90年代にかけて、天下の巨人軍の先発ローテーションの一角だった好投手である。  140キロ超のストレートと90キロ台のスローカーブを武器に、90年には11勝。当時の巨人は斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己の3本柱が全盛期だったが、これに香田と宮本和知を加え、5本柱と呼ばれることもあった。  中でも香田の名前が脚光を浴びたのは、近鉄と激突した89年の日本シリーズだ。このシリーズで巨人は球団初の日本一を

外見から入るギャップ戦略も大事【野球バカとハサミは使いよう#33】

威圧感たっぷりの大柄なヒゲ男は技巧派 現在、千葉ロッテの投手コーチを務める齊藤明雄(2009年まで斉藤明夫)は、身長184センチという立派な体格に加え、日焼けした浅黒い肌と豊かな口ヒゲが特徴的な、少々いかつい風貌で知られる男だ。通称・ヒゲの齊藤である。  現役時代は、1970~90年代にかけて大洋(のちの横浜)の先発やクローザーとして活躍した名投手で、当時としては史上3人目となる100勝100セーブを達成。さらに新人王(77年)や最優秀防御率賞(82年)、最優秀救援投手賞(

「度胸7割、実力3割」で長く活躍した男【野球バカとハサミは使いよう#32】

勝負度胸が光った安田猛 プロ野球で一流の投手になれる条件とは、必ずしも体が大きいことや速いボールを投げられるということだけではない。例えば、1970年代に活躍したヤクルトの技巧派左腕・安田猛のように、身長170センチ前後と小柄で、ストレートの球速もせいぜい130キロにもかかわらず、長らく活躍した投手もいる。  安田はペンギン投法と呼ばれた独特のサイドスローからの緻密なコントロールを武器に、75~78年まで4年連続2桁勝利を記録し、さらに最優秀防御率賞を2年連続(72~73年

ノーヒットならピザだけ、猛打賞のときは…【野球バカとハサミは使いよう#31】

家庭内ニンジン作戦の効用を証明したポンセ 時は1980年代、現在の横浜DeNAベイスターズの前身である横浜大洋ホエールズは、決して強いわけではなかったが、実に個性的なチームだった。かの有名なスーパーカートリオ(高木豊、加藤博一、屋鋪要)がダイヤモンドを走り回り、オバQ・田代富雄が豪快なスイングで本塁打を量産。その他、名遊撃手・山下大輔の華麗な守備やエース・遠藤一彦の高速フォークなどにも魅了された。  そんな80年代大洋が誇る代表的な外国人大砲といえば、カルロス・ポンセだ。8

百回の弁解よりも一回の行動【野球バカとハサミは使いよう#29】

獲得した勲章は色あせない 人間はなにか勲章を手にするためだけに仕事をしているわけではない。しかし、だからといって勲章を手にできそうなチャンスがあるのに、それを逃すのもおかしな話である。  これはプロ野球では個人タイトルのことだろう。タイトルのために野球をやっているわけではないが、チャンスがあるなら狙いにいくのが人情だ。  かつて1980~90年代にかけて広島の二塁手として活躍した正田耕三が、その良い見本だった。正田は身長170センチという小兵だったためか、入団当初は決して

現役の最後には、若いころの忘れ物を取りに行こう!【野球バカとハサミは使いよう#28】

「メジャーに最も近い男」と評された佐々木誠 かつての日本球界にとって、MLBははるか遠い存在だった。1995年に野茂英雄が日本人メジャーの門戸を開いたわけだが、それ以前の日本人選手はたとえメジャーで活躍できる能力があったとしても、それを実現する術をもたなかった。  なかでも、80~90年代の南海・ダイエーなどで活躍した左打ちの外野手・佐々木誠は特にそうだった。92年に首位打者を獲得した巧みな打撃はパンチ力も兼ね備えており、92年と94年には盗塁王も獲得した俊足の持ち主。さら

クローザーなのに最優秀防御率賞に輝いた男【野球バカとハサミは使いよう#25】

先発転向した途端に右ヒジ故障した赤堀元之 日本球界を代表するクローザーといえば、近年では左の岩瀬仁紀、右の藤川球児が2大巨頭だろう。少し時代をさかのぼれば、大魔神こと佐々木主浩、ヤクルト黄金時代の守護神・高津臣吾の名前が挙がるはずだ。  そんな中、通算セーブ数ではトップ10にも入らないものの、僕の印象に強く残っているクローザーがいる。それは1990年代の近鉄で活躍した赤堀元之だ。  赤堀は88年ドラフト4位で近鉄入りすると、早くからリリーフとして活躍。そして4年目の92年

旬を逃してしまうと心が腐ってしまうこともある【野球バカとハサミは使いよう#23】

マネジメントに恵まれなかった〝アジアの大砲〟 2013年のWBC第2ラウンドで日本を苦しめた台湾。日本球界における台湾出身野手のパイオニアといえば、1988年に巨人に入団した右のスラッガー・呂明賜だろう。当時の球界には、一軍登録が可能な外国人選手は1球団につき2人までというルールがあり、巨人にはすでにクロマティと投手ガリクソンがいたため、呂は2人にアクシデントがあったときの保険という扱いだった。  したがって、入団当初は二軍暮らしが続いていたのだが、88年6月にクロマティが

ライバルの能力が上でも、そこで諦めてはいけない【野球バカとハサミは使いよう#21】

星野仙一監督が選んだ〝頑丈で従順な男〟 職場に自分と同じ業務を担当するライバルがいたとする。そして、そのライバルが自分よりも学があり、機転も利き、人に好かれそうな性格だった場合、多くの人は少なからずショックを受けるだろう。  プロ野球界でも1980年代中期~2000年代にかけて、中日などで長らく活躍した捕手・中村武志がそうだった。中村は84年のドラフト1位であり、その後も捕手として通算1955試合出場を記録するなど、一見すると順風満帆な野球人生だと思われがちだ。しかし、実際

金田監督に顔面を蹴られたトレーバーに学ぶ〝ギャップ戦略〟【野球バカとハサミは使いよう#20】

仕事以外でも周囲の人の記憶を刺激しよう 長いプロ野球史の中には「記録より記憶に残る選手」という存在も少なくない。たとえば元阪神タイガースの外野手・亀山努もその一人であろう。  亀山はドラフト外入団という無名の存在ながら、プロ5年目の1992年にライトのレギュラーを獲得すると、シュアなバッティングとアグレッシブな走塁を武器に大活躍。中でも闘志あふれるヘッドスライディングは甲子園の名物となり、一躍スターダムに駆け上がった。  この年、それまで低迷していた阪神が2位に躍進したこ

自信家とは根拠が“ある”から美しいのだ【野球バカとハサミは使いよう#19】

一芸に勝るものなし 昨年(※注2012年)、2リーグ制以降のプロ野球において、史上初となる規定打席未到達の本塁打王が誕生した。ヤクルトの外国人、バレンティンである。彼は典型的な一発屋で、昨年の安打数はわずか96本ながら、その約3分の1である31本が本塁打という驚異的なパワーを見せつけた。  そして、そんな一発屋といえば、1987年に広島に入団した外国人、ランスを思い出す。豊かなヒゲを蓄えた牧師のような風貌が印象的な左打者だった。  ランスの打撃の特徴は、あまりに極端なプル

竜頭蛇尾より〝蛇頭竜尾〟後半で輝け!【野球バカとハサミは使いよう#18】

難事を成し遂げるには進退かけた覚悟が不可欠 難しい仕事に挑もうとするときほど、相応の覚悟が必要になってくる。覚悟とは、すなわち仕事にかける熱量である。  プロ野球界で、この覚悟がないと務まらない仕事といえば、たとえば審判だ。審判とはいくら好ジャッジをしても称賛されることはなく、一方で一度でも誤審をすれば非難を浴びたり、自分より高額所得者の選手から暴行を受けたりもする因果な商売だ。信賞必罰のバランスを欠くだけに、よほどの情熱がないとやっていけないだろう。  中でも、かつてセ

社員寮は絶大な効果を発揮する!【野球バカとハサミは使いよう#17】

球団に勧告されるまで寮に住み続けた野口茂樹 人間とは基本的に自分に甘い生き物である。だからこそ、仕事で成功するためには自己管理が重要になってくる。  プロ野球選手もそうだ。例えば、かつて中日などで活躍した左腕投手・野口茂樹。彼もまた自己管理によって、選手生命を左右された一人だ。  野口は愛媛県の丹原高校から1992年に中日入りすると、4年目から一軍に定着し、6年目の98年には14勝を挙げ、最優秀防御率のタイトルを獲得した。高卒であることを考えると、順調なプロ人生だと言える

キャリアアップの前に思い出したい大きなリスク【野球バカとハサミは使いよう#16】

人材育成は忍耐力と覚悟  プロ野球における4番打者とは、打者における野球ヒエラルキーのトップと言って差し支えないだろう。アマチュア球界で4番を打っていた猛者ばかりがプロの門を叩き、その中でさらに競争を勝ち抜いた者だけがプロでも4番を打てるわけだ。  そんな栄えあるプロ野球の4番打者という称号を18歳という若さで勝ち取った選手は数少ない。その代表的な例が1986年の西武・清原和博と、62年の近鉄・土井正博である。  清原の場合は、ご存じの通り高校球界のスーパースターだったが