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「失敗本」を楽しく読んだのですが、読書ログとしては完全に失敗しました。

 今日も朝から失敗をした。東京メトロ東西線・門前仲町駅で下車するべきところをうっかり木場駅まで乗り過ごしてしまった。1967(昭和42)年、東西線開通と同時に開業した木場駅は島式ホーム1面2線だが、単線円形シールドトンネルが離れて2つ並んでいる構造のため、ホーム両端以外は壁で仕切られており上下ホームを行き来することができない。10両編成の真ん中に乗っていた私は東陽町寄りの端に向かってとぼとぼと歩いた。その途中でワイヤレスイヤホンのバッテリーが切れた。昨夜、充電しなきゃと思っていたのに…。あ、何かお腹がゴロゴロしてきた。しかし、この駅のトイレは地下4階から2階まで上がってさらに改札外。私という生き物はなぜこんなにも失敗を繰り返すのか。(東スポnote編集長・森中航)

https://www.tokyometro.jp/station/kiba/yardmap/index_print.html

「失敗本」の魅力

 私事ではあるが、成功を謳う本よりも失敗が書かれた本が好きだ。前者はたいてい、「こうすると成功しますよ」「こうすればいいんだよ」と前向きに教えてくれるのに、それすらできない(もしくは踏み出さない)自分がみじめになり、結局何一つ変わらない(つまり〝失敗〟する)ことが多いのだ。一方、失敗を主眼に置いた本はテニスを教えるときの松岡修造さんみたいに熱くないし、読者に努力と成長を求めてこない。「そんな失敗があったのね…」とその場でじっくり考えさせられる気がする。そして意外なことに、失敗を因数分解すると飽きないくらい面白い。野球をしない人が野球観戦を楽しむのに近いのかもしれない。

世の中には「失敗本」もいっぱいあります

『メガトン級 「大失敗」の世界史』という文庫本をゴールデンウィークに読んだ。人の失敗を笑ってはいけないが、久しぶりの連休くらい(他人の失敗で)笑いたいという悪趣味なところもあったのは(この先、失敗しないために)自白しておく。章立てからワクワクする先発メンバーである。

第1章 人類の脳はあんぽんたんにできている
第2章 やみくもに環境を変化させたつけ
第3章 気やすく生物を移動させたしっぺ返し
第4章 統治に向いていなかった専制君主たち
第5章 誰が誰をどう選ぶかの民主主義
第6章 人類の戦争好きは下手の横好き
第7章 残酷な植民地政策もヘマばかり
第8章 外交の決断が国の存亡を決める
第9章 テクノロジーは人類を救うのか
第10章 人類が失敗を予測できなかった歴史

 ちなみに野球でいうところの監督に当たる著者はロンドンを拠点に活動するジャーナリスト兼ユーモア作家のトム・フィリップス氏。ぱらぱらとページをめくってみると、箇条書きで紹介されている箇所でさえ、英国人らしい毒舌たっぷりで面白い。

本日走行不可 一九八九年、メキシコ市は大気汚染を減らそうと、決められた日に特定の車種の運転を禁じた。まずいことに人々はバスを使う代わりに、いつでも法的に運転できる車をもう1台持つようになった。つまり、ただ車の台数が増えただけだった。

T・フィリップス『メガトン級「大失敗」の世界史』(河出文庫、2023年、150p)

最後の1本まで木を伐採したイースター島の人々

 誰しもこの本を読み終えたときは「メガトン級のタイトルに偽りなし!」と声高らかに宣言したくなるだろう。それほどまでに失敗のスケールがデカすぎるのだ。笑ってはいけないが、笑ってしまうほどに人類はアホなのである。もちろん私も含まれている。

 特に興味深かったのは第2章、モアイ像で知られるイースター島の話だ。ポリネシアが世界でも屈指の文明を誇っていた時代、ラパ・ヌイと呼ばれたポリネシア人たちはカヌーを使って海を渡り、島へたどり着いた。そこで縦割りの集団生活を行い、モアイ像は祖先の顔の肖像をつくって崇めると同時に建てた人物の権威性を高める政治的目的もあった。高さ20メートル超、重さが90トンもある巨大なモアイ像を運ぶには木が必要になるはずだが、1722年にヨーロッパ人が初めてイースター島に訪れたとき、島に木は1本もなく、みすぼらしいカヌーと細々と畑仕事で食いつないでいたという。いったいどうやって運んだのか。

ごたぶんにもれず、オランダの船乗りたちの好奇心はそう長くはもたなかった。つまり、さっそくヨーロッパ人におなじみのことをし始めた。はっきり言うと、誤解続きのやりとりのあげく大勢の地元民を撃ち殺した。続く数十年で、さらに多くのヨーロッパ人がこの島にやってきた。そして、もっぱら彼らが「発見した」ばかりの地でやりがちな定番なふるまいをした。たとえば死にいたる病気をもたらすとか、地元民をさらって奴隷にするとか、上から目線でいばりちらかすとかだ。

T・フィリップス『メガトン級「大失敗」の世界史』(河出文庫、2023年、66p)

 『銃・鉄・病原菌』で知られる生物学者のジャレド・ダイアモンド氏は『文明崩壊』の中でラパ・ヌイの暮らしが一変したことは、片っぱしから森林を伐採してしまった結果、森が消え、食料となる野生動物もいなくなり、やがて部族抗争が起きて人口が激減したとの説を支持している。

 ジャレド・ダイアモンドは『文明崩壊――滅亡と存在の命運を分けるもの』でこう問いかけた。「最後のヤシの木を切り倒したイースター島民は、その木を切りながら何と言ったのだろう?」 これはなかなか手ごわい質問で、答えを導き出すのは難しい。どうせポリネシア版の「あとは野となれ山となれ」だったのだろう。
 だがおそらく、もっと手ごわい問いはこうかもしれない。最後から二番目、三番目、四番目の木を切り倒したイースター島民はいったい何を思っていたのだろう? 人類の歴史にならえば、かなりのいい線で、こんなことを思っていただろうと察しがつく。「知ったこっちゃない」だ。

T・フィリップス『メガトン級「大失敗」の世界史』(河出文庫、2023年、70p)

なぜ脳があって思考できて熟慮しても失敗するのか

 ラパ・ヌイだって「木が1本もなくなる」なんてことは考えず、ただ当たり前に木を切り続けたら最悪の事態に陥ってしまった〝だけ〟なのだ。だとしたら、「人の振り見て我が振り直せ」ということわざよりも、人類は「赤信号みんなで渡れば怖くない」という意識に振り回されているような気がして空恐ろしくなった。私たちのそうした思考は何ゆえそうなるのか、トム監督の話を聞いてみよう。

私たちの脳にはパターンを見いだす能力がある。これには問題があって、脳はパターンを見いだすことに夢中になりすぎて、いたるところにパターンを見いだし始め、パターンなどないところにまで見いだしてしまうのだ。夜空の星を指さして、「ほら見てごらん。あれはラマを追いかけているキツネだよ」と言っている分にはたいした問題ではない。だが見いだした想像上のパターンが「おおかたの犯罪はあの民族のしわざだ」となってくると、それは……ゆゆしき問題となる。

T・フィリップス『メガトン級「大失敗」の世界史』(河出文庫、2023年、28p)

 己の失敗を反省することでパターンを見つけることはできるかもしれないが、それも行き過ぎると毒になるということか。ネガティブなことばかり考え始めて眠れなくなるのもよくある話だ。そんなことをつらつら考えていたら、なぜかアントニオ猪木を思い出した。

 1990年、猪木&坂口征二とのタッグで、蝶野正洋&橋本真也組との試合前インタビューで「もし負けるということがあると、これは勝負の時の運という言葉で済まないことになりますが?」と聞かれた際に、猪木は「出る前に負けること考えるバカいるかよ」とアナウンサーをビンタした。当たり前のことを当たり前に言っているだけなのに、あのビンタが〝闘魂ビンタ事件〟として後世に語り継がれているのは、やっぱり猪木が常識の範疇を飛び出せる存在、つまり〝非常識〟の男だったからではないか。

蝶野を攻める猪木(1990年2月10日、東京ドーム)

ここまで書いて、なんだかこの終わり方も文章すべても失敗だった気がしてならないので、「失敗ばかりの人生」「負け組」「自堕落」「自分に甘い」とか考えずにほどほどに反省します(苦笑)。


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