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「いぶし銀」が9か月ぶり帰国で銀座のうなぎ屋に行き…【プロレス語録#19】

 これは1976(昭和51)年、後に“いぶし銀”と呼ばれる木戸が欧州遠征、フロリダのカール・ゴッチ教室から約9か月ぶりに凱旋帰国した時のコメントだ。

凱旋帰国試合で猪木と組んだ木戸だったが、7種類のスープレックスは披露できず

 新日本プロレスの旗揚げから4年。実力派のホープ・木戸にかかる期待は大きかった。

 帰国直後の木戸を、東京・築地のうなぎ屋「宮川」にてキャッチした本紙は、2月20日付紙面の1面記事で木戸のインタビューを掲載している。

 日本プロレス時代からの後輩・藤波辰巳(現・辰爾)とともに西ドイツマットで修行を積んだ木戸はニュルンベルク、ケルン、ミュンスター、ミュンヘンなど各都市を転戦。現地では連日、スティーブ・ライトやホースト・ホフマンらトップ選手と対戦し、サイドスープレックス(グレコローマンの俵返し)から、そのままフォールの体勢に入るホフマンの技術を盗んだことを明かしている。

 その後、フロリダのゴッチ教室で徹底的に鍛えられ、ゴッチのお墨付きとともに帰国。この時、師匠のゴッチから7種類のスープレックスを伝授されたことを明かした。

ゴッチ(中)とトレーニングに励んだ木戸(右)と藤波(75年11月、フロリダ州)

「7種類のスープレックス」といえば、7年後の1983(昭和58)年、同じく欧州↓ゴッチ教室を経て帰国した前田日明が有名だが、元祖は木戸だった。

 木戸の凱旋試合は、2月20日の東京・大田区体育館大会のメーンイベントに決定。テレビ生中継で猪木とタッグを結成しレッド・デビルス(ブラック・ゴールドマン&グレート・ゴリアス)と対戦という豪華版だった。

 だが試合は大荒れ。3月4日の広島大会で北米タッグ王座挑戦(王者=坂口征二&ストロング小林)が決まっていたデビルスに押されまくった日本組が3本勝負の2本を反則勝ちして終了。木戸は7種類のスープレックスを披露することなく、凱旋試合を終えた。



 まだ「外国人=未知なる生物」という公式が成り立っていた時代。

 これは1961(昭和36)年2月、「プロレス新春国際試合」の全日程を終えた力道山が放談会と称し、豊登、遠藤幸吉とともにシリーズを振り返りラッキー・シモノビッチ、ロード・ブレアース、そしてサー・ダラ・シンの3選手について語り合った時のひと言だ。

 ここで日本勢の標的となっているのは米国から来たシモノビッチとブレアースではなく、未知なる国・インドからやってきたシンだ。このサー・ダラ・シンはダラ・シンの実弟という触れ込みで来日した選手。ブレアースは後にPWF会長として全日本プロレスでおなじみの顔となる人物だ。

インド流足首固めで力道山を攻めるシン。しかし、力道山の評価は低かった…

「期待外れ」と一刀両断されたシンに対する批判は生活や言語習慣、さらには食生活にまで及ぶ。「彼は牛肉を食べないんだよ。回教徒だからタブーなんだ。旅先でもワシの部屋でスキ焼きをやると、ブレアースとシモノビッチは喜んでやってきてバリバリとたいらげるんだ。だけどシンは見向きもしない」(力道山)

「トリの肉しか食べないそうですね。それに彼はアーモンド(木の実)がないとボヤいていた。インドにいる時は日に2回必ず、アーモンドジュースを飲むそうだ。これがスタミナの原動力になるそうだ」(遠藤)

「そんなことは言い訳にならんよ。やはり問題は『やるぞ』という根性だ」(力道山)

「あれではダメですね。もう少し人と交わって環境に慣れなくちゃ」(豊登)と徹底的に“インド流”を否定されている。

 現代のスポーツ選手ならば、シンの食生活を選択する選手が多数だろう。また馬場&猪木時代と違い、日本勢と外国人選手のリング外交流についても実にオープンな時代だったことが分かる。

年の瀬をただ一人で迎えるシンは本紙に笑顔を見せた(60年12月、新橋第一ホテル)

※この連載は2008年4月から09年まで全44回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全22回でお届けする予定です。

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