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で、当然、藤原サンに殴られました…【プロレス語録#12】

UWF旗揚げ以降は「格闘王」のイメージが強く、そのカリスマ性でファンを引き付けてきた前田日明だが、新日本プロレスの若手時代は歴代でも一、二を争うハチャメチャなエピソードの持ち主でもあった。

 これは29年前の1979(昭和54)年10月2日、新日プロの大阪府立体育会館大会の試合前、若き日の前田が、長州力、木戸修、藤原喜明の“実力派トリオ”に放ったひと言である。

 この日、前田は地元・大阪凱旋とあって試合前から大張り切り。そんな前田にイタズラを仕掛けようとしたのが長州、木戸、藤原だった。

 どこから見つけてきたのか?直径10センチ大の角材3本を持ってきて、前田に見せつけ「これは、いくら何でも割れんよな」と挑発。まだ弱冠20歳。純な前田は本気になり「じゃ殴ってください」と応戦する。

 もはや引っ込みはつかない…。その場で藤原が前田の背、腹、頭を角材で殴りつけると、角材は見事に3本とも、真っ二つに割れてしまった。

角材で前田の頭を殴る藤原。角材はポキリと折れた…

 このモーレツ特訓?が功を奏したのか、この日の前田は前座第1試合でライバル・平田淳二(現・淳嗣=スーパー・ストロング・マシン)を10分7秒、片エビ固めに下し、さらには第3試合のバトルロイヤル(8人参加)にも参加。イタズラの張本人・藤原を5分42秒、逆エビ固めに下して優勝。見事に地元凱旋で2連勝を飾ったのだった。

「3カウント入ったのか?」不覚にも剛に敗れ王座から転落した藤波

 ちなみに、前田が2連勝を飾ったこの日、アントニオ猪木がタイガー・ジェット・シンと一騎打ち。藤波辰巳(現・辰爾)は剛竜馬とWWFジュニアヘビー級王座の防衛戦を行い、剛の逆さ押さえ込みで不覚にも王座から転落している。



 1975年10月9日(東京・蔵前国技館)アントニオ猪木は「20世紀最強の鉄人」とうたわれたルー・テーズと、NWF王座をかけて対戦した。

 世代を超えた一戦のレフェリーは、レスラーとして未来日のまま引退した“鳥人”アントニオ・ロッカが務めることが決定。ところがロッカを嫌う猪木の師匠・ゴッチは「レフェリーは、オレじゃなければ務まらない」と、決戦7日前になって横ヤリ。これはその時にゴッチが発したひと言だ。

前年、猪木対ゴッチ戦のレフェリーを務めたテーズ(奥=74年8月、大阪)

 プロレスラーの心理は時に複雑だが、レスラーOBの心理は、もっとややこしく複雑だ。1950~60年代。ニューヨーク地区で、飛び技を多用したファイトスタイルで一世を風靡したロッカを嫌うゴッチは「お前とルー・テーズの試合を裁けるようなレフェリーはオレしかいない。アントニオ・ロッカみたいなやつに、ルー・テーズの微妙な技の変化や駆け引きが読めるものか。アントニオ・ロッカ・レフェリーなんてやめてしまえ!」と一喝。

 ゴッチは前年、自分と猪木が一騎打ちを行った際に、テーズがレフェリーを務めた経緯から、今度は自分が「猪木対テーズ」を裁くつもりで立候補。ところが猪木はWWWF(現WWE)のビンス・マクマホン代表(先代)とロッカ招聘に向け、すでに契約を結んだ後だった。

 後に新日プロのオーナーとして、現場の決定事項を覆す強権発動を連発し、多くのフロント陣を会社側と選手側の“板挟み”に追い込んで混乱を招いた猪木だが、当時はまだ師匠の横ヤリに頭を抱える立場だった。

「ゴッチは私の恩師。恩師が弟子の試合のレフェリーをやるのは不公平ですよ」と、ささやかに反撃し、ロッカのレフェリー採用を強行突破したのだった。 

猪木対テーズのNWF戦は、結局ロッカ(奥)が裁いた

※この連載は2008年4月から09年まで全44回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全22回でお届けする予定です。

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