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前例がないなら自分で作ればいいのだ【野球バカとハサミは使いよう#6】

地味ながら通算187勝、華麗なるサブマリンといえば…

 球史に残るアンダースロー投手といえば、多くのプロ野球ファンは杉浦忠と山田久志を想起するだろう。1950~60年代の南海を支えた大エース・杉浦には59年に記録した年間38勝、日本シリーズ4連投4連勝など数々の伝説があり、一方、阪急を支えた山田にも3年連続MVPや12年連続開幕投手、通算284勝など輝かしい偉業の数々がつきまとう。

 数字だけなら通算221勝の皆川睦雄(元南海)も並び称されておかしくないのだが、そこは人気商売であるプロ野球だ。彼にはどこか地味な印象があるのか、こういう議論になるとあまり名前が挙がってこない。

名球会入りで米田哲也にブレザーを着せてもらう山田久志、左は皆川睦雄氏(82年4月、西宮球場)

 それは山田とともに阪急の一時代を支えたサブマリン、足立光宏にも言えることだ。足立は山田の先輩にあたり、山田の最大の武器・シンカーを伝授した師匠のような存在。当時の阪急は投手王国を誇っており、足立の先輩には通算350勝の米田哲也と同254勝の梶本隆夫もいたため、足立は地味な存在にならざるを得なかった。

 しかし、実績的には文句なしの一流投手であった。現役21年で通算187勝。62年には当時のプロ野球記録である1試合17奪三振を記録し、さらに日本シリーズにはめっぽう強かった。

 興味深いのは足立がアンダースローになったきっかけである。杉浦が大学時代、山田が社会人時代にオーバースローからアンダースローに転向したのと違って、足立は高校時代から早くもアンダースローに取り組んでいた。もっとも、そこに明確な理論があったわけではない。中学まではオーバースローだったが、高校で肘をけがしたため、その再発を恐れて徐々に肘が下がり、結果的にアンダースローになっただけなのだ。

 足立の高校時代はちょうど50年代中盤にあたる。すなわち、前述した杉浦の大活躍(年間38勝を挙げた59年)以前の話であり、恐らくアンダースローという投法がまだ世間に認知されていなかった時代だろう。

 そう考えると、当時の足立は肘のけがによって相当なショックを受けたはずだ。「上から投げられないなら下から投げる」という前例が少ない中で、よくぞ挫折することなく、アンダースローという当時としては画期的な生き残り策を思いついたものだ。「けがの功名」と言っては安易かもしれないが、けがによって諦めなかったことが、のちの大サブマリンを生んだのだ。

足立光宏(77年10月、西宮球場)

 これはサラリーマンにとっても非常に参考になる極意だ。自分の中に仕事において致命的な欠点があったり、大きな壁にぶち当たったりしたときは、思い切った発想の転換が必要だ。従来の方法で打開できないからといって諦めることなく、なんとかして生き残るために「大人の悪あがき」に賭けてみる。そうすることで、新しい道が開けることもあるだろう。前例がないなら自分で作ればいいのだ。


怒りは自分のためでなく、仲間のために!

 暴力は決して褒められるべきことではない。それは人間が社会生活を送るうえでの大前提であり、もちろんすべての職場においても言えることだ。

 プロ野球界では、暴力というと試合中の乱闘騒ぎを思い浮かべる方が多いだろう。なかでも死球に激怒した巨漢の外国人打者がマウンドの投手にのっしのっしと歩み寄り、あるいは鬼の形相で猛ダッシュして、その投手に暴力を振るうシーンは今も昔もプロ野球名物のひとつだ。無論、あしき名物である。

 そして、そんな乱闘といって思い出されるのが、1988~90年の南海(後に福岡ダイエー)ホークスに在籍した外国人、トニー・バナザードである。来日1年目に打率3割をクリアし、2年目には34本塁打を記録するなど、実力的には間違いなく優良助っ人だったが、性格的には非常に短気で知られていた。実際、試合中に乱闘騒ぎを起こすことがよくあったのだ。

トニー・バナザード(88年9月、大阪球場)

 特に88年はひどかった。審判の判定を不服として暴言を吐いたのを皮切りに、その後も近鉄の投手・加藤哲郎に暴行を加えたり、ロッテのコーチ・木樽正明と殴り合いを演じたり、1シーズンで3度の退場。これは当時の日本球界の1シーズン最多退場記録(※現在は2010年に広島のマーティー・ブラウン監督が記録した4回が最多)であった。

 普通なら、そんな暴れん坊の外国人選手はチームメートやファンから嫌われそうなものである。しかし、バナザードはチームメートに愛されており、古くからの鷹党の間でもいまだに根強い人気を誇っている。

 それはきっと乱闘の理由によるものだろう。バナザードは自分が死球を受けたときよりも、チームメートが死球を受けたときのほうが暴れることが多かった。たとえば前述の近鉄・加藤との乱闘時もそうだ。あれはバナザードが死球を受けたのではなく、同僚のジョージ・ライトが執拗な内角攻めを受けていることに怒り、ベンチから飛び出してきたのだ。

 また、89年の対日本ハム戦も忘れられない。同僚のウィリー・アップショーが死球を受けたことをきっかけに乱闘が勃発したのだが、バナザードはそのときも怒り狂い、なぜか日本ハム・若菜嘉晴コーチと殴り合っていた。彼の拳は仲間のために振りかざすものだったのだ。

 これは暴力を怒りという言葉に置き換えた場合、サラリーマンにも通ずる極意となる。仕事においてはいかなる理由でも暴力を振るってはいけないが、その代わりに本気で怒らなければならないときはあるだろう。

 しかし、その怒りは決して自分のためではなく、会社全体や同僚など、何か他のものを守るために消費すべきだ。その怒りに正義があるかないか、そこが最も重要なのだ。

チームメートに愛されたバナザード(89年4月、平和台球場)

山田隆道(やまだ・たかみち) 1976年大阪府生まれ。京都芸術大学文芸表現学科准教授。作家、エッセイストとして活躍するほか大のプロ野球ファンとして多数のプロ野球メディアにも出演・寄稿している。

※この連載は2012年4月から2013年9年まで全67回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全33回でお届けする予定です。

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