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携帯電話やメールが普及する以前のアナログな張り紙【プロレス語録#6】

 この世には、一線を越えた戦いを繰り広げた者同士にしか分かり合えない感情がある。

 これは当時、W☆INGマットで極悪大王、ミスター・ポーゴと血で血を洗う抗争を繰り広げていた“ミスター・デンジャー”松永光弘が、ポーゴのFMW移籍に怒り狂い、関東近郊のポーゴの自宅を急襲した際、ドアに残した張り紙のひと言である。

 当時のインディマット界は、次から次へと団体が増殖する一方で、ただ一人、メジャー級の知名度を誇っていた大仁田厚率いるFMWによって選手の吸収が行われ、新日本、全日本といったメジャー団体に負けない組織の再編が行われていた。

松永とポーゴのファイヤーデスマッチ(92年8月、千葉・船橋オートレース場)

 涙と感動がウリの大仁田のデスマッチに対抗し、W☆INGは乾いた危険なにおいのデスマッチを続々と敢行。対抗勢力となっていた。そんなさなか、エース・松永と抗争を繰り広げ、9月に「一線を越えたデスマッチ」を予定していたポーゴが、戦場をFMWに移してしまったのだから、これはインディマット界のパワーバランスを揺るがす大事件となった。

 怒りの松永は7月1日の午前中にポーゴの自宅を急襲。けたたましくドアをノックすると、玄関横の窓から顔をのぞかせたポーゴを「俺との約束を放り投げて逃げて行くなんて許せん」とののしった。

今見てもインパクト大の張り紙だ

 驚きつつも、にらみ返したポーゴは窓をピシャリ。怒りの収まらない松永は「またくる ゆるさん」と平仮名のみの張り紙を残して、その場を立ち去った。携帯電話や電子メールが普及する以前ならではのアナログなやりとり。帰り際も怒りの収まらぬ松永だったが「しまった。漢字で書いておけばよかった…」と後悔していた。


 初代タイガーマスク(佐山聡)が空前のプロレスブームを巻き起こしていた1982年。タイガーマスクの刺客として、メキシコから来日したウルトラマンが成田空港で「(タイガーマスクは)オレを3分間しか戦えない男だとか言ったそうだな。それは日本のウルトラマンだ。メキシコのウルトラマンは高地で鍛えているんだ。3時間でも大丈夫だ」と不敵に言い放った。

虎戦士と戦ったウルトラマン(左)は妙に世俗的だった

 ウルトラマンは言うまでもなく円谷プロ製作の日本産ヒーロー。そのキャラクターを勝手に拝借して、メキシコで誕生したのがプロレスラー・ウルトラマンだった。まさに“逆輸入”の来日だ。

 タイガーマスクのWWFジュニア王座に挑戦の決まっていたウルトラマンは、UWA世界ヘビー級王者・カネックとともに午後4時47分着のパンナム1便で来日。3年ぶりに日本の土を踏むと前出のようなセリフを発した。

 M78星雲からやってきた宇宙人であるウルトラマンが、高地トレうんぬんを語るのも何だが、他にもメキシコ産ウルトラマンは「オレと戦った連中は皆、オレの速い動きと技のキレにヒイヒイいってるぜ」などと、ジゴロばりのセリフまで発している。

 異色のテレビヒーロー同士によるタイトル戦は、タイガーが土肥温泉合宿で編み出した「スペースフライング・タイガードロップ」を初公開した末、原爆固めで防衛に成功する。

 日本産虎戦士が宇宙殺法でメキシコから来た宇宙人を退治するという、よく分からない結末となった。

初代虎がスペースフライング・タイガードロップを初公開(82年6月、蔵前国技館)

※この連載は2008年4月から09年まで全44回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全22回でお届けする予定です。

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