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モハメド・アリが助っ人を依頼したアラビアの怪人【プロレス語録#2】

“世紀の一戦″と呼ばれたアントニオ猪木との異種格闘技戦(昭和51年6月26日、日本武道館)を2か月後に控えたボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリが一時、助っ人を依頼したのが、何とアラビアの怪人ことザ・シークだった。

シークはリング上でも常に祈りをささげていた

 アリは「イノキがドロップキックで来るなら、俺はドロップキックの名人であるアントニオ・ロッカを、喧嘩で来るなら(ディック・ザ)ブルーザーをコーチに招く」と豪語。そしてアリ陣営が正式にコーチを要請したのが“火炎殺法”を得意とするシークだった。

 アリの要請をシークも快諾。シークは1974年11月に、沖縄・那覇で猪木とシングルマッチ2連戦を戦い、1戦目は反則負け。続く2戦目は逃げ場のないランバージャックデスマッチで争ったものの、試合放棄という後味の悪い形で、猪木に連敗を喫している。

猪木とシークのランバージャックデスマッチ(74年11月、那覇)

「猪木に対する憎しみの感情だけで、アリのコーチを引き受けたのか?」の質問に対してシークは毅然とした態度で回答した。

「そんなことはない。俺は回教徒(イスラム教徒)だ。アリも回教徒だ。シカゴの本部でアリと何度も会っており、友人として、コーチの要請を受けたのだ。俺はレバノンのテブノンで生まれた。根っからの回教徒なんだ。回教をアメリカに広めるのも俺の目的のひとつであり、その意味では、将来、回教の宣教師になるというアリとは兄弟みたいなもの。兄弟が戦うのを助けるのは当たり前じゃないか」と断言した。イスラムの絆は強い。

 だが、アリが猪木戦本番に帯同した軍師は、なぜか“銀髪鬼”フレッド・ブラッシーだった…。 


 これは、今も伝説となっている前田日明とアンドレ・ザ・ジャイアントの無効試合(三重・津市体育館)後の、猪木のコメントだ。

 唐突に決まった注目の一騎打ちはアンドレがチョーク、かんぬき、そして全体重をかけたフルネルソンで前田潰しを狙ってきた。前田も負けじとひざへの正面蹴り、ローキックでアンドレをダウンさせ、逆十字固めで大巨人破壊を狙う。だが、その直後、アンドレは寝転がったままニヤニヤと薄笑いを浮かべ、試合をストライキしてしまった。

全体重をかけて前田を押しつぶすアンドレ(86年4月、三重・津)

 混乱したのは前田だけでなく、リング外のセコンド勢も一緒。藤原喜明、木戸修、高田伸彦(当時)、山崎一夫らUWF勢が前田にゲキを飛ばせば、異変を感じた猪木ら新日プロ勢もリングサイドに駆けつけた。

「前田、勝負だ! 勝負だ!!」とリングに駆け上がった猪木と、UWF勢が乱闘を開始したため26分35秒、レフェリーがノーコンテストを告げた。

伝説の無効試合。異常を感じた猪木(右)はリングに駆け上がったのだが…

 当時、新日プロの社長でもあった猪木は収拾のつかない無効試合に対して、謝罪してもおかしくはない立場にもあった。だが猪木は「俺が出ていったのは、あくまで“警告”を与えるためだ。日明にゲキを飛ばすためだ。それをUWFの連中は勘違いしやがった。決して一騎打ちをブチ壊すためじゃない」と弁明。無効試合に至る乱闘の要因をすべてUWF勢に押しつけている点がすごい…。

 猪木は現在も、ボクシングの亀田一家や横綱朝青龍が世間のバッシングを浴びた件に関しても「こちとらプロ。嫌なら見に来んな!」と、プロ側が安易な謝罪で世間に許しを請う風潮を徹底否定する。当時も今も一貫したままだ。

※この連載は2008年4月から09年まで全44回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全22回でお届けする予定です。

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