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くすぶっているかもしれない…と思ったときに読んでみて【野球バカとハサミは使いよう#13】

相次ぐ転向で生まれた遅咲きのスター

 例えば、ある会社に入って数年がたつというのに、なかなか能力を発揮できず、くすぶっている人がいたとする。そんなときは、かつてのヤクルトの主砲・杉浦享に学べばいい。

 杉浦といえば1970~90年代にかけて活躍した左の長距離砲。プロ22年間で通算224本塁打を記録したが、そんな彼も入団当初はなかなか能力を発揮できなかった。何しろ杉浦はもともと投手として入団しており、それでは芽が出る気配がなかったため早々と野手に転向した選手だったのだ。

ヤクルトの杉浦享

 もっとも、投手から野手に転向して大成した打者自体は決して珍しくない。究極の例を挙げると、天下の王貞治だ。彼もまた投手から野手に転向して、世界の本塁打王になった。

 したがって、杉浦の野手転向も順調に成功していれば取り上げる必要もないのだが、彼の場合はそこでも苦難が続いた。野手転向後、最初に取り組んだファーストでも目立った結果を残せず、一向にレギュラーを獲得できないまま、気付けば5年の月日が流れたのだ。

 そこで杉浦は、首脳陣の判断もあって再びポジションを変えることになった。ファーストから外野への再転向である。

 さらに、その外野の中でもレフトでレギュラーをつかめないとなると、今度はライト、はたまたセンターへとポジションを転々。そんな転向続きの末、プロ7年目の78年には「外野ならどこでも守れる万能選手」となり、ようやく悲願のレギュラー外野手の座をつかんだのだ。

 その後、杉浦は8年目に初のシーズン20本塁打超え(22本)を果たし、翌年には打率3割超え(3割1分1厘)を達成。さらに12年目の83年からはヤクルトの4番に座り、14年目の85年に自己最多のシーズン34本塁打を放った。杉浦はポジションを転々と変えることで、時間こそかかったものの、大きな成功を手にした苦労人だったのだ。

セ・東西対抗でMVPを獲得して笑顔を見せる杉浦享(82年11月、広島市民球場)

 これはサラリーマンの世界にも通ずる話だ。現在の仕事で目立った結果を出せていないからといって、何も悲観することはない。属する部署や取り組むプロジェクトが変わることで、今まで眠っていた才能が一気に開花することもあるからだ。

 そのためには、時として「諦め」も重要なのだ。結果が出ないなら、現在の環境や方法を潔く諦め、何かを変えてみる。ともすれば忌み嫌われることも多い「諦め」という言葉だが、それが新たな可能性につながるなら、歓迎されるべきなのだ。


自分を犠牲にしても後進のために…これぞ大黒柱の仕事

 元西武ライオンズの東尾修といえば、主に1970~80年代に活躍した大エースだ。目を見張る剛速球はないものの、打者の内角を強気にえぐるシュートを武器に喧嘩投法の異名を取り、通算254勝を挙げた。

 当時のパ・リーグは、東尾のほかに近鉄・鈴木啓示、阪急・山田久志、ロッテ・村田兆治といった各球団の大エースたちがしのぎを削っており、まさに戦国時代の様相を呈していた。

 中でも85~88年、西武がリーグ4連覇を飾ったころの東尾はすでに大ベテランであり、その存在感は際立っていた。実力的には全盛期に比べ少し衰えていたものの、その豊富な経験には工藤公康や渡辺久信といった若手投手たちもまだまだかなわない。彼らは東尾という大黒柱があったからこそ、安心して自分の投球ができたのだろう。

喧嘩投法で知られた東尾修

 そんなベテランエース・東尾の威光を最も強く感じたのは、巨人と激突した87年の日本シリーズである。

 すでに37歳となっていた東尾は初戦に先発したのだが、序盤から巨人打線につかまり、3回にいきなり4失点、6回にも2失点。計6回6失点であえなくKOされ、チームも巨人に「3―7」で敗れてしまった。

 しかし、これで終わらないのがエースたるゆえんだ。この試合の東尾は調子が悪いことを自覚しており、序盤に打ち込まれたときに監督から交代を打診されたのだが、続投を志願。それは決してムキになっていたわけでも、立ち直る自信があったからでもなく、「初戦を落としてでも巨人打線の特徴をつかみ、それを次戦の先発投手に伝えるためだった」と後年語っている。

 実際、東尾は得意の制球力を駆使して様々な球種をコースに投げ分けることで、巨人の各打者の得意、不得意を分析。6回で降板したころには巨人打線はすでに3巡もしており、経験豊富なベテラン投手には十分すぎるデータを得たという。

 そして、この教えが奏功したのか、第2戦の先発・工藤は巨人打線を完封。さらに工藤は第5戦でセーブ、第6戦でも完投勝利を挙げ、チームも日本一に輝いた。シリーズMVPは2勝を挙げた工藤であったが、そこに東尾が目立たないながらも大きく貢献したのは間違いない。

 これこそが、真の大黒柱というものである。プロ野球に限らず、サラリーマンの世界でもそうだ。組織のトップに長年君臨していた者は、年齢的に一線を退き、後進に譲ったからといって、それで終わりではない。

 時に自分を犠牲にしてまで後進のために経験を伝え、指導をいとわず、あるいは組織を守る大きな傘のような役割を担うことで、後進が働きやすい環境を作ってあげる。そうすることで若い力がめきめき成長し、組織全体が強化されるなら、それもまた会社のエースたる男にしかできない大きな仕事なのだ。

日本シリーズに優勝し、祝勝会で仲良く肩を組む東尾(左)と工藤公康(87年11月、西武球場内のレストラン「獅子」)

山田隆道(やまだ・たかみち) 1976年大阪府生まれ。京都芸術大学文芸表現学科准教授。作家、エッセイストとして活躍するほか大のプロ野球ファンとして多数のプロ野球メディアにも出演・寄稿している。

※この連載は2012年4月から2013年9年まで全67回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全33回でお届けする予定です。

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