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社会人時代の3年間は貧血で倒れ、血尿が出るほど練習した【下柳剛連載#4】

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バラ色の未来が一転して暗黒の世界に

 夢だったプロ野球の世界へ――。1987年秋に大洋(現DeNA)の入団テストに合格したオレは、その年のドラフト会議で指名を受けてプロ野球選手になるはずだった。

 ところが…だ。秋季キャンプ参加から3日ほどたって、球団職員の方に想定外の質問をされた。「下柳くんは今年、大学を中退したんだよね」。その通りなので「ええ」と言ってうなずくと「だったら1年間はプロで獲れない」と返ってきた。野球協約でそう決まっているのだから、どうにもならない。そんな単純なことも当時は知らなかった。っていうより、プロ野球の世界に飛び込みたい一心で、野球協約のことなんか考えたことさえなかったんだ。「これで終わりやな」。約束されていたはずのバラ色の未来が、一転して暗黒の世界へと変わった。

プー太郎危機から一転、社会人野球で出直すことに

 故郷の長崎に戻ったオレは、母校のグラウンドで練習を続けながら、高校時代の仲間の父親が経営している鉄工所でアルバイトを始めた。でも心はどこかモヤモヤしたまま。毎日のようにオートバイを乗り回していたけど、どこかスッキリとしない。「このままプー太郎をしとってもなあ」。そう考えたオレは地元の職業安定所に行って、面接の予定を入れたりもした。そんなある日、オヤジに「野球をあきらめんのか?」と問いただされた。そこまで突き詰めて考えていなかったけど、チャンスがあるなら続けたい気持ちはあった。

 捨てる神あれば拾う神あり――。運命のいたずらとでも言うのか、瓊浦けいほ高の2年後輩で、のちにダイエー(現ソフトバンク)でチームメートにもなる投手の山口信二と一緒に、社会人の新日鉄君津のテストを受けないかという話が舞い込んできた。どうやら高校時代にお世話になった安野俊一監督が「左投手で遊んでいるヤツがいる」と口添えしてくれたようだ。

 高校のグラウンドで行われたテストには単車で行った。その日のうちに合否は決まらなかったから、翌日にはアルバイト先の出張で、当時は建設中だった松浦町(現松浦市)の火力発電所へ。そうしたら今度は安野監督からの電話で「明日、君津に行け」って。わけも分からないまま渡されたチケットを持って、人生初の飛行機に乗って東京へ向かった。

ダイエーで下柳とチームメートだった山口信二。右は王貞治監督(1994年11月、鷹ノ巣)

 羽田空港には新日鉄君津のマネジャーさんが待っていて、電車を乗り継いで君津を目指した。待っているのは初めての都会暮らし。そう思って車窓から風景を眺めていると幕張を越え、千葉を越えたあたりから怪しくなってきた。木更津を越えたころには、故郷の長崎と変わらない田園風景が広がっていた。どうやら「関東は都会」というのはオレの思い込みだったようだ。

「とりあえず1週間」と言われて始まった“試用期間”は、わずか3日で終わった。「もう帰っていいよ」って言われたんだ。

職場へ恩返しせぬまま迎えた運命の日

 社会人の新日鉄君津で練習に参加して3日目のことだ。新たなチャンスに恵まれたと思っていた矢先に、オレは「もう、帰っていいよ」と言われた。早すぎる戦力外通告――と思ったのは早とちりで、真相は「長崎に戻って荷物をまとめてから出直して来い」。つまり「合格」だ。

 せっかく巡ってきたチャンスだけど、ダラダラと野球を続けるつもりはなかった。自分で「3年間」という期限を区切って、門川純監督にもその旨を伝えた。「3年でプロに行けなかったら長崎に帰ります」って。

 それからの3年間は、練習を一日も休まなかった。盆も正月も関係なし。その間は一度も長崎には帰らなかった。社会人だから仕事もしたよ。関連子会社の太平工業という会社でね。総務部に配属されて、午前中限定ながらデスクワークもしていた。

 休まなかっただけじゃなくて、量もこなした。「やらされた」んじゃなく自ら進んで。チームには、過去に新日鉄釜石ラグビー部のV7を支えた小西勝見さんというトレーニングコーチがいて、まるで個人トレーナーのように独占していた。チームメートには申し訳なかったけど、いつも1人で別メニューだったから。小西さんには、ほんとお世話になった。先見の明のある方で、今では当たり前のようにやっているウエートトレーニングやチューブを使ったインナーマッスルの強化なんかも率先してメニューに取り入れてくれてね。

 2年目の春に左ヒジのネズミの手術(遊離軟骨除去)をしてからは、ウエートトレを積極的にやった。昔は筋肉をつけるのが嫌だったんだけど、気がつけばベンチプレス130キロ、スクワットでは180キロを持ち上げられる金本知憲のようなマッチョになっていた。

ウエートトレーニングに励むマッチョ・金本知憲(2004年1月、広島市内)

 自分でも「バカじゃねえの」と思うぐらい練習したよ。当時の寮の食事では補えないほど練習でカロリーを消費していたから、練習中に貧血で倒れたこともあった。血尿が出たこともあった。でも、苦じゃなかったんだよね。小西さんから「プロ志望なら、ここが二軍だと思って練習しろ」って言われて、オレもその気になっていたから。

 新日鉄君津で3年目となる90年、千葉の第2代表として念願の都市対抗出場を果たした。そして迎えた7月25日の日産自動車(横須賀)との1回戦は、先発したオレが6回途中までに満塁弾を含む2発を食らって8失点KO。チームは3―11の完敗だった。ため息しか出ない残念な結果に終わってしまったけど、プロのスカウトはオレのことを評価してくれていた。

 ドラフト前にあいさつがあったのは巨人、ダイエー、中日、西武など6球団。「3年でプロ」の目標を達成するメドは立ったけど、都市対抗で1勝もしていないのだから職場への恩返しができていない。オレは複雑な思いのまま、運命の日を運命的な場所で迎えた。

社会人時代の3年間は練習に明け暮れる毎日だった

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しもやなぎ・つよし 1968年5月16日生まれ。長崎市出身。左投げ左打ち。長崎の瓊浦高から八幡大(中退、現九州国際大)、新日鉄君津を経て90年ドラフト4位でダイエー(現ソフトバンク)入団。95年オフにトレードで日本ハムに移籍。2003年から阪神でプレーし、2度のリーグ優勝に貢献。05年は史上最年長で最多勝を獲得した。12年の楽天を最後に現役引退。現在は野球評論家。

※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。

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