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トルシエはなぜ中田英寿に謝罪したのか【20年前の真実】

 今から20年前――。日本サッカーの至宝と言われる久保建英が生まれた2001年6月4日に、サッカー日本代表はコンフェデレーションズカップのブラジル戦で引き分けに持ち込み、決勝トーナメント進出を決めた。そして、準決勝でもオーストラリアを下し、フランス代表との決勝戦に臨んだ。国際サッカー連盟(FIFA)主催の大会でA代表がファイナリストになるのは史上初で、02年日韓W杯に向けて大きな弾みを付けた国際大会だった。ただ舞台裏では〝大バトル〟が繰り広げられていた。絶対的エースとして君臨したMF中田英寿の周囲で何が起きていたのか。(運動二部・三浦憲太郎)

ローマ・中田英寿のプレー(vsリーズ・ユナイテッド、00年3月)

ローマで日本人初のスクデットを獲得した中田(写真は2000年3月)

【Chapter1】トルシエ解任論を封じ込めるために中田英を招集せよ

 翌年に迫った日韓W杯に向けてピッチ内外でシミュレーションとなったコンフェデレーションズ杯は大陸王者が世界一を競う大会で、日本と韓国の共催だった。1次リーグA組は1998年フランスW杯優勝のフランスとオーストラリア、メキシコ、韓国。B組はブラジルとカメルーン、カナダと2000年アジアカップ(レバノン)優勝の日本が入った。

 本番1年前の世界大会とあってトルシエジャパンの真価が問われていたが、01年に入ってフランスに0―5、スペインに0―1で完敗するなど、思うような結果が出ていなかったことで、日本代表への不満はくすぶっていた。しかもトルシエ監督は、普段からJリーグや日本サッカー協会への痛烈批判を繰り返すなど、数々の問題行動が非難されており、自国開催の世界大会で1次リーグ敗退となれば解任論が再燃するのは避けられない状況だった。

見出し用トルシエ

自身の進退がかかっていたコンフェデ杯はトルシエ監督にとって〝絶対に負けられない戦い〟だった

 そんな中、追い打ちをかけるように日本代表の10番を背負うMF名波浩をはじめ、MF中村俊輔、FW柳沢敦、FW高原直泰とチームの主軸が負傷のため不参加。大幅な戦力ダウンは必至で好成績は望めない状態だった。それでもJリーグの川淵三郎チェアマンは「ホームでやる大会で完膚なきまでやられて誰が納得するのか。内容、勝つということが大事なんだよ」と強調。1次リーグ敗退ならトルシエ監督の進退を問題視すると表明し、不穏なムードが漂っていた。

 こうした状況下で、日本代表はW杯に向けて国内の機運を高め、トルシエ監督の解任論を封じ込めるために、決勝トーナメント進出が求められていた。そこでエースのMF中田の招集が不可欠と考えていたが、問題となったのは、中田が所属するイタリア1部ローマの動向だった。

 欧州各国リーグがシーズン終盤戦を迎える中、ローマは18年ぶりのスクデット(リーグ制覇)獲得が目前に迫っていたため、クラブ側はもちろん、世界的名将のファビオ・カペッロ監督も貴重な戦力となる中田の派遣に難色を示した。FIFAのルール(当時)ではコンフェデ杯に優先権があったものの、クラブ事情を考慮しない日本協会の姿勢を批判し、猛反発していた。

カペッロ監督(01年4月)

ローマで指揮を執っていたファビオ・カペッロ監督(01年4月)

 ただ、日本協会も大事なプレW杯とあって、中田の強行招集も辞さない構えを見せた。交渉は難航し、当初予定されていた日本代表メンバー発表が延期となるなど、混迷を深めた。それでも日本は欧州駐在の国際委員らを動員し、粘り強く中田の派遣を要請。ギリギリのタイミングでローマからようやく「許可」を引き出すことに成功した。

 中田が日本代表に合流したのは、コンフェデ杯開幕のわずか2日前のこと。それでも日本代表の大躍進に尽力したが、一方でまさかの〝トラブル〟に巻き込まれていく。

【Chapter2】スクデット目前のローマと日本サッカー協会が交わした〝密約〟

 2001年5月31日の1次リーグ初戦。日本は北中米・カリブ海代表のカナダと対戦し、MF小野伸二、スペイン1部エスパニョール所属のFW西沢明訓、MF森島寛晃のゴールで3―0と快勝し、好スタートを切った。第2戦のカメルーン戦も追加招集のFW鈴木隆行の2ゴールで勝ち、2連勝。もちろん、エース中田の好パフォーマンスもあって、1次リーグ突破をほぼ手中にした。

日本Xカナダ、小野1点目(01年5月)

カナダ戦で先制点を決めたMF小野伸二(01年5月)

 日本サッカー界は、翌年に控える日韓W杯に向けたシミュレーション大会で結果を出し、本番に向けて国民の期待感を高めることに成功。同時に、かねてくすぶっていたフィリップ・トルシエ監督の解任論を封じ込めた。4強で争う決勝トーナメントでさらなる躍進が期待された中、日本サッカー協会は、1次リーグ終了後に中田が日本代表を離脱することを表明した。

仲間と抱き合って喜ぶローマ中田(左、01年5月、ユベントス戦)

ローマで仲間と抱き合って喜ぶ中田(01年5月、ユベントス戦)

 ここまで主力メンバー不在のチームをけん引していたエースだが、日本協会は前出のように所属するローマの猛反対を押し切って中田を強行招集していた。日本サッカー協会の岡野俊一郎会長は第2戦のカメルーン戦を前にこう説明した。

「本人の考え(ローマ優勝の瞬間に立ち会う)を優先したい。中田がいない状況で(代表が)どういうふうにプレーするのかテストすることも重要」

 実は、のちに明らかになるのだが、中田のコンフェデ杯参戦は1次リーグ3試合限定だったと、イタリア紙「ガゼッタ・デロ・スポルト」が暴露。当初から中田の派遣に難色を示していたローマは、リーグ優勝が決まるであろう6月10日のナポリ戦に出場できるよう、クラブに戻すことを条件とする〝密約〟を日本協会と結び、参戦を認めていたのだ。

 コンフェデレーションズ杯は国際サッカー連盟(FIFA)の公式戦で、各国リーグ戦の開催中も選手を代表に招集できるルール(当時)があった。ただ、ローマに所属するブラジル代表のDFカフー、DFザーゴ、MFエメルソンはコンフェデ杯の招集を免除され、クラブに専念。またリーグ優勝の可能性を残していたイタリア1部ユベントスのフランス代表10番、MFジネディーヌ・ジダンやエースストライカーのFWダビド・トレゼゲも今大会に招集されていなかった。

 こうした欧州のクラブ事情を考慮した日本協会は、中田を招集するため「3試合限定」の条件をのまざるを得なかったわけだ。ただ、協会の密約とは別に、トルシエ監督は中田の代表離脱をかたくなに認めなかった。

【Chapter3】ルールを盾にトルシエがヒデを離さないという誤算

 コンフェデ杯1次リーグ2連勝の日本は6月4日の第3戦ブラジル戦に0―0のドロー。まさかの1位突破で決勝トーナメント進出を決めた。日本は世間から求められていた4強入りを果たし、翌年のW杯本大会に向けて国内の機運を高めるとともにトルシエ監督解任論の封じ込めにも成功。予想外の快進撃に日本列島は大熱狂し、初の世界制覇への期待も膨らんでいた。

コンフェデ杯Xブラジル、トルシエ監督、6月4日、カシマ

ブラジル戦をドローで終え、まさかの予選1位突破を決めたトルシエ監督(01年6月4日、ブラジル戦)

 そんな中、日本はイタリア1部ローマ所属で強行招集した中田を1次リーグ終了後、クラブに戻すことを決定していたが、これにトルシエ監督が猛反発。エースの離脱について「私は日本で最高の試合をするために雇われている。代表として最高の顔(中田を含むベストメンバー)を見せて決勝まで残って最高のチームになりたい」とし「ローマの(ファビオ)カペッロ監督からも〝中田を戻してくれ〟と言われたが、それを決められるのは私だけだ」と、背番号7の残留を訴えた。

 日本代表がFIFA主催の世界大会で決勝トーナメントに進出したのは史上初。しかも母国開催のためサポーターの大きな後押しを受け、世界タイトル奪取も十分に狙える絶好のチャンスだった。トルシエ監督としても、世界的な名声を手に入れる好機を逃す気はなく、日本が誇る〝最高戦力〟の中田が欠かせないという判断だった。

 ただ、指揮官の強い意向に日本サッカー協会側は困惑した。中田のコンフェデ杯招集を実現させたものの、前述したように、1次リーグの3試合限定参戦だったとイタリア紙「ガゼッタ・デロ・スポルト」が報道。「中田は(ローマの優勝が決まる6月10日の)ナポリ戦に戻ってくる」とし、日本とローマの〝密約〟を大きく伝えたように、イタリアに戻すことが大前提になっていたからだ。

 中田自身もスクデット(リーグ優勝)獲得の瞬間をピッチで体感したいとの意向があったため、協会側も「日本人選手としてイタリアリーグで優勝の瞬間に立ち会うのは貴重な経験になる」と後押し。しかし、トルシエ監督はコンフェデ杯に優先権のあるFIFAルール(当時)を盾に最後まで離脱を拒絶した。そこで日本協会は、同10日ナポリ戦に間に合わせることをローマと中田本人に確約し、7日の準決勝オーストラリア戦に出場することが決まった。

コンフェデ準決勝

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