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勝負は下駄を履くまで分からないっていうけど、ほんとその通り【下柳剛連載#3】

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甲子園が見えかけた県大会準決勝で…

長崎の瓊浦けいほ高の2年生になったころには「絶対にエースになってやる」という高いモチベーションがあった。「やるからには」という軽い感じじゃなくて「絶対」。それは2番手投手としてブルペンで悔しい思いをしてきたからだ。

 ある試合の前に左投手対策として打撃投手に起用されてから、オレはちょいちょい試合で登板機会をもらえるようになっていた。小学生のころ夢中になってやっていた的当ての成果もなくコントロールは悪かったけど、地肩の強さもあって球は速かったから。それと、1学年上に投手がいないというチーム事情もあってね。

 当時のエースはリトル出身で、打っては4番のエリート。反骨心をかき立てられるタイプだ。しかもエースには特権があって、ブルペンでキレイなボールを使って投球練習できる。2番手のオレは、いつだってエースが使い古したボールしか投げることができない。それが嫌だったんだよね。

エースとなった3年夏には、試合後に個別取材を受けることもあった

 どうにか背番号「1」を背負えるようになったのは3年生の夏だった。ただ、打順は8番。バッティングだけは、どうにもならなかった。数字で言うならプロに入ってからもサッパリだったな。

 一軍の試合で打席に入るようになったのは阪神に移籍した2003年以降で、シーズン最高の成績を残したのはチームが優勝した07年の37打数6安打、打率1割6分2厘。そもそも打率が1割を超えたのは05年と07年の2度だけで、あとは水戸(029)やら横浜(045)の市外局番のような数字だった。「なんとか打ってやる」って意識は高校時代よか、よっぽどあったんだけどね。

 話を元に戻そう。猛練習に耐えたオレたちは、1986年の夏の県大会を順調に準決勝まで勝ち進んだ。本命は1つ年下で、のちにロッテで活躍する堀幸一を擁する海星高校。その最大のライバルが、オレたちの目の前で佐世保商業に3―2で負けた。

 ってことは…。「おいおい、オレたち甲子園に行けるんちゃう?」。そんな浮ついた雰囲気のまま臨んだ準決勝の島原中央戦でウチは7―5と惨敗。フライが上がったと思えば野手がお見合いするし、オレはオレで無駄な四球を出すし…。勝負は下駄を履くまで分からないっていうけど、ほんとその通り。ちなみにオレらに勝った島原中央が甲子園に行った。

打席に入る下柳(2007年4月、ナゴヤドーム)

 そんなこんなで、波瀾万丈のオレの3年間は終了。甲子園にも行けなかったし、その先のプロ野球を意識することもなかった。頭に浮かんだのは「大学に行って教職でもとって、将来的に母校の監督でもできれば」という新プラン。誘ってくれた大学も何校かあった。

 高校から「夏休みに補習授業を受けなければ大学への推薦を認めない」って言われて勉強をさせられたのは誤算だったけど、なんとか八幡大(現九州国際大)への進学も決まった。でもそれは、波瀾万丈な野球人生の第2幕の序章にすぎなかった。

上級生からの〝かわいがり〟で球速アップ

 1987年の春、福岡県北九州市にある八幡大学(現九州国際大)への進学が決まったオレはVIP待遇で迎えられた。これは大げさではなくマジな話。何しろ入学前の春休みに、上級生に交じって遠征メンバーに選ばれていたぐらいだから。

 プロ野球でもそうだけど、ベンチ入りメンバーは数に限りがあって、新戦力が1人加われば必ず1人外れる。1年生のオレがメンバーに選ばれたことで出場機会を奪われたのが、バッテリー担当で寮長も兼ねていた3年生。まあ、面白くないわな。本業でかなわない下級生にポジションを奪われた上級生がすることといえば…。いろいろと、かわいがっていただきました。

 こっちも面白くないから、1年生みんなに声をかけて寮を脱走した。最初は行き場がなくて野宿したりしてね。高校時代の野球仲間のところに転がり込んだりもした。最終的には寮に戻ったけど、今度はより厳しい練習を課される。まあ、そのおかげで球速が140キロ以上になったんだから感謝しないといけないな。

 九州インカレでの優勝に貢献したり、それなりの結果も残した。それでも上級生からの“かわいがり”は続いた。「このまま続けるのもどうなんやろう」。そう自問自答する日々の中で、仲間から思いもよらない話を聞かされた。「オマエは知らないだろうけど、実は高校のときに広島と南海のスカウトが見に来ていたんだぜ」。もちろん監督は知っていたという。

大洋の秋季キャンプで対面を果たした新浦は小学生時代の憧れの投手だった

 本気で獲得するつもりだったのか、単に左で速い球を投げる面白そうな投手がいるとチェックしに来ただけなのかは分からない。でも、オレにとっては「プロの評価の対象になっていた」という事実だけで十分だった。「よし、大学を辞めて入団テストを受けよう」。その結論を出すのに時間はかからなかった。

 親は大学中退に大反対で、大学の監督にも「全国制覇をしたいんだ」と慰留された。「嫌な選手がいるなら辞めさせるから」とも言ってくれた。でも、自分の決意に変わりはない。秋の入団テストを受けるためには時間がなかったので、迷うことなく大学を中退した。

 テストを受けたのは日本ハムと大洋(現DeNA)だった。結果は、1次の走力テストの一歩目で足を滑らせた日本ハムが不合格で、大洋は1次テストでただ一人合格。さっそく横須賀のグラウンドで行われていた秋季キャンプにも参加させてもらった。実を言うと、合格する自信はあったんだ。体調も万全で、直球なんて147キロとか平気で出していたから。

 大洋でもVIP扱い。練習はベテラン選手と一緒の早上がりで、小学生時代に憧れていた新浦壽夫さんや若菜嘉晴さん、屋鋪要さん、高木豊さんといったそうそうたるメンバーと一緒に風呂に漬かったりしてね。

大洋の若菜(左)と高木豊(1988年7月、横浜)

 ついにつかんだプロの世界への切符。季節は秋でも、まさに“我が世の春”。でも、わずか3日後には現実の世界へと引き戻された。

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しもやなぎ・つよし 1968年5月16日生まれ。長崎市出身。左投げ左打ち。長崎の瓊浦高から八幡大(中退、現九州国際大)、新日鉄君津を経て90年ドラフト4位でダイエー(現ソフトバンク)入団。95年オフにトレードで日本ハムに移籍。2003年から阪神でプレーし、2度のリーグ優勝に貢献。05年は史上最年長で最多勝を獲得した。12年の楽天を最後に現役引退。現在は野球評論家。

※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。

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