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交渉事で精神的に優位に立つために…【野球バカとハサミは使いよう#22】

腕の筋肉を見せつけ相手投手を威嚇

 仕事をしていると、様々な交渉事に挑まねばならない。その際、できるだけ交渉相手より精神的に優位に立ちたいと思うのは当然の心理だ。大きな商談になればなるほど、相手に足元を見られたら終わりである。

 これはプロ野球における打者と投手の心理戦にも言えることだ。たとえば無名の新人打者が豊富な実績を誇るベテランの大投手と対峙すると、新人打者はバットを構えているだけで萎縮してしまうケースがある。大投手が発する威圧的なオーラにのみ込まれ、自分のスイングができなくなるというわけだ。

 過去の球界には、こういう事態を回避すべく、地味ながらも精一杯の工夫を施した選手もいた。例えば元広島の外野手・浅井樹がそうだった。

広島の浅井樹

 浅井は1990~2000年代にかけて、主に左の代打として活躍した選手だ。現役13年間で規定打席に達したことは一度もなかったが、打撃技術には定評があり、代打通算打率は3割1分5厘。そんな浅井であってもレギュラーになれなかったのは、当時の広島には金本知憲、前田智徳、緒方耕市といった走攻守すべてに秀でた外野手が揃っていたからだろう。浅井は守備に少し不安があったのだ。

 従って、浅井はその実力の割に、決してネームバリューのある選手ではなかった。それだけに、相手投手は浅井に萎縮することなく、自信満々にボールを投げ込んでくる。そこで浅井は他の方法で相手投手を威圧しようと考えたのか、打席である工夫を凝らしたという。

 それは打席でバットを構える際に、ユニホームの袖を短くまくり上げるということだ。そうすることで、相手投手に自分の筋肉を見せつけ、できるだけ敵を威嚇しようとしたのである。

 実は浅井は、球界でも屈指の肉体美を誇る男だった。

 それを浅井自身がよくわかっているからこそ、この筋肉こそが相手投手に威圧感を与える一番の武器になると踏んだのだろう。

引退で胴上げされる浅井樹(2006年10月、広島市民球場)

 これはサラリーマンの交渉事でも参考になる極意だ。相手よりも精神的に優位に立つためには、時に原始的な雄々しさを見せつけることも有効だ。それは決して筋肉だけでなく、たとえば堂々とした姿勢で相手に対峙したり、腕時計だけでも高級な物にしたり、そういう工夫によっても可能だろう。

 そして、この威勢とは必ずしも相手に伝える必要はなく、そうすることで、自分を奮い立たせることのほうが重要だ。精神の優位性とは、結局のところ自分の心の問題なのだ。


いくつになっても組織のために汗をかける人間であれ

 野球チームを強くするためには効果的な補強策が不可欠である。それは1980年代中盤~90年代に黄金時代を誇った西武ライオンズにも言えることだ。

 あの黄金時代は79年、野村克也、田淵幸一、山崎裕之といった他球団の大物選手を次々に獲得したことに端を発する。実績も経験も豊富な彼らがチームの基盤を築き、彼らの背中を見て育った若手選手たちが後の常勝チームを作り上げたのだ。

 したがって、黄金時代黎明期である80年代前半の西武は期待の若手・石毛宏典が1番を打ち、かつてのミスタータイガース・田淵幸一が4番を打つ混沌とした打線だった。中でも印象深かったのは、かつてのロッテの主砲・山崎裕之の打順だ。

 この山崎、ロッテ時代はまさにエリートだった。高校時代は長嶋茂雄2世と騒がれ、当時としては破格の契約金5000万円でプロ入り。その後も長打力のある二塁手として、ロッテ打線の中軸を支え続けた。現役20年間で通算2081安打、270本塁打の実績は、山崎が花形の一流打者であった証拠だろう。

通算2000本安打を達成した山崎(1983年9月)

 しかし、そんな山崎も西武移籍以降は状況が激変した。移籍当初こそ田淵とクリーンアップを組むことも多かったが、82年ごろから衰えが見え始め、地味な役回りである2番打者として起用されることが増えたのだ。

 そして、これを山崎自身が受け入れたことが素晴らしい。普通、彼ほどのエリート打者であるなら、クリーンアップを外されただけでプライドが傷つくもので、ましてや打線の脇役である2番に徹するなんて、なかなかできないものである。

 しかし、山崎はそれを見事にこなした。特に圧巻だったのは82年の日本シリーズだ。このシリーズで山崎は2番を打ち、かつて自分が担ったクリーンアップへのパイプ役として西武日本一に大きく貢献。こういう精神的な強さがあったからこそ、山崎は衰えてからも貴重な戦力となり得たのだろう。

 これはサラリーマンにも参考になる極意だ。勤続年数が長くなり、それなりに実績を積んだ人間ほどプライドが邪魔をして、若いころのような泥くさい仕事ができなくなるものだが、それでは仕事の調子が下火になったときに挽回できなくなる。

 そういうときのためにも、いくつになっても人に頭を下げられる人間でいた方がいい。飛び込み営業にも挑める精神力があった方がいい。組織のために汗をかくことは、どんな役回りでも美しいはずなのだ。

西武の山崎裕之

山田隆道(やまだ・たかみち) 1976年大阪府生まれ。京都芸術大学文芸表現学科准教授。作家、エッセイストとして活躍するほか大のプロ野球ファンとして多数のプロ野球メディアにも出演・寄稿している。

※この連載は2012年4月から2013年9年まで全67回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全33回でお届けする予定です。

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