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洗ったレンコンに徹夜でからしを詰め込んだ【下柳剛連載#2】

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高校入学して最初に取り組んだのはダイエット

 本当の意味で野球漬けになったのは地元・長崎の瓊浦けいほ高校に進学して野球部に入ってからかな。昨日も書いたように中学時代の1、2年はまともに野球をさせてもらえなかったし、家の手伝いもしなきゃいけなかったから。

 実家はさつま揚げやからしレンコンなんかを扱う店をやっててね。小学生時代から家業の手伝いはよくさせられてた。特に大変だったのが年末年始に飛ぶように売れる、からしレンコン作り。からしがよく染み込むように金タワシで表面に軽く傷をつけるようにして洗うんだけど、その時期だから水もめちゃくちゃ冷たくてね。洗ったレンコンに徹夜でからしを詰め込むなんてことも珍しくなかった。

江平中時代は今から想像もつかないほど太っていた

 大変だったのは高校進学も同じ。勉強嫌いで宿題ひとつやったことないんだから、学力なんか推して知るべしでしょ。長崎の普通の中学生は普通に公立高校に進む。実際に同級生のレギュラーたちは、ごっそり公立の長崎西に進学した。でも、オレはペケ。何校か落ちて、最終的に引っかかったのが瓊浦だった。母校の名誉のために付け加えておくと、今はそれなりに勉強もできないと合格できないらしい。

 受かった時点で野球部に入ることは決めていたから、入学前にオヤジと一緒に野球部のグラウンドにあいさつに行ったんだ。そのとき監督の安野俊一さんに言われたのが「ヤセるまでボールは使わせない」という強烈なひと言だった。まあ、無理もないよね。160センチで90キロっていうおデブさんだったんだから。

 入学して最初に取り組んだのは、もちろんダイエット。小学生のころから抱いていた「プロ野球選手になりたい」という夢があったし、高校で野球をやる以上は「甲子園に出たい」という思いもあったから本気で体重を絞った。ほとんど絶食に近い無理なダイエットのかいもあって、なんと3か月で20キロ減。でも、体が大変なことになってしまった。

中学、高校時代を追想する下柳

 1学期の期末試験のころだ。野球部の練習はランニングだけだったんだけど、ついていけなくてね。あまりに顔色が悪いんで病院に行かされて、医者から言われたのが「このまま過度な運動を続けたら死にますよ」。検査の結果、体内の血液の量が普通の人の3分の1になっているって。

 高台にあるウチの学校は4~5キロ走って通学するのが野球部のしきたりなんだけど、ドクターストップのかかったオレは無念のバス通学。もちろん野球なんてできるわけないし、練習に顔を出してもさせてもらえるのはグラウンド整備と草むしりだけ。そんな生活が半年も続いた。

「もういいや。野球も学校もやめて働くか」。そんな投げやりな気持ちになったとき、さらなる悲劇っていうか、オレの野球人生を大きく左右する出来事が待っていた。 

監督に退部届を出したらすさまじい愛の叱咤激励が…

 メシもろくに食わず、3か月で20キロ落とすという過激なダイエットで、オレの体はボロボロになっていた。ストレス性の胃潰瘍で吐血して、こりゃあいかんって点滴を打ったら注射に対する抵抗力すらなくなっていたようで、顔は腫れるわ全身にジンマシンが出るわ…。野球どころじゃないし、ちょっと良くなって練習に顔を出してもグラウンド整備と草むしりしかさせてもらえない。

「野球も学校もやめたろう」。そう決意して同級生2人に声をかけた。「3人で一緒にやめようぜ」って。でも、いざ監督に退部届を出しに行く段になって、みんなビビり始めちゃった。通っていた瓊浦高の安野俊一監督は、すげえ怖い人だったから。そこで言いだしっぺのオレがおとこ気出して、先頭バッターとして監督のいるプレハブのクラブハウスに入っていったんだ。

 まあ、そのときの慰留っていうか、愛の叱咤激励とでもいうのか、すさまじかった。グラウンドにいた野球部員の証言によると、クラブハウスだけが数十分にわたって地震にでも襲われたように激しく揺れていたそうだから。

 部屋の中で何が起きていたかはご想像にお任せするとして、一緒にやめるはずだった連れは、オレの腫れあがった顔を見て即決でやめるのをやめて、オレも野球を続けることになった。もし監督が「そうか。野球をやめても元気でやれよ」というタイプの人だったらプロ野球選手・下柳剛は誕生していない。「3年になったらオマエが投げるんだ」って言いながら激しく叱咤激励してくれた安野監督は、紛れもなくオレの恩人だ。

ともに汗を流したチームメートは今でもかけがえのない仲間。最前列中央が下柳

 どうにか冬を迎えたころに体がまともな状態に戻ったオレは、ようやくチームメートと同じ練習メニューをこなせるようになった。それもハンパじゃない量の。夏休み中なんかは誰かがぶっ倒れて、救急車が来たら練習が終わる…みたいな感じだった。

 もちろん、いかに監督の目を盗んで練習をサボるかも考えていた。でもバレるんだよね。4~5キロのランニングコースをショートカットしたときもそう。監督に「バカが付いとろうが。やり直し!」って怒られて。

 ちなみに「バカ」って言うのは長崎弁で、全国的には「ひっつき虫」やら「くっつき虫」って言われるセンダングサとかいう、種の先端がトゲトゲしてて服とかにくっついちゃうやつのこと。野草の生い茂った急斜面の最短ルートを通ると、必ず練習着に付いちゃうんだ。グラウンドに戻る前に手で払って偽装工作するんだけど、自分では見えない背中とかに残っていたりして。ほんと「バカ」だよね。

 でも、練習はウソをつかない。厳しいメニューをこなしているうちに、ガリガリながらも体が強くなって球のスピードも上がってきた。控え投手兼一塁手だったオレも、本気で「エース」の座を意識するようになった。

高校時代、本気で「エース」の座を意識したという下柳(写真は阪神時代)

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しもやなぎ・つよし 1968年5月16日生まれ。長崎市出身。左投げ左打ち。長崎の瓊浦けいほ高から八幡大(中退、現九州国際大)、新日鉄君津を経て90年ドラフト4位でダイエー(現ソフトバンク)入団。95年オフにトレードで日本ハムに移籍。2003年から阪神でプレーし、2度のリーグ優勝に貢献。05年は史上最年長で最多勝を獲得した。12年の楽天を最後に現役引退。現在は野球評論家。

※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。

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