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明大柔道部に潜り込むために…博多から東京まで急行列車で23時間【坂口征二連載#2】

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親父にこっぴどく叱られたプロレス初観戦の夜

 小学校6年生の6月。幼少時から私をかわいがってくれた祖母が亡くなった。

 そのお通夜が、かねて楽しみにしていたプロレスの久留米巡業の日と重なってしまったのだ。

 親族としては当然、お通夜の席にいなくてはならない。考えるまでもないことだ。

 ところが、どうしてもプロレスを見たくて仕方がない私は、コッソリとお通夜を抜け出し、友人と待ち合わせて一目散にプロレス巡業の会場である小頭町公園へと走った。屋外に組まれた特設リング。客席にはイスでなく、ゴザが雑然と敷かれていた記憶がある。

生の力道山(左)に胸をおどらせた坂口少年だったが…

 そして、まぶしく光り輝くリング上には、それまで街頭テレビでしか見たことがなかった力道山、そして遠藤幸吉さんらがシャープ兄弟と激闘を繰り広げていた。鍛え抜かれたプロレスラーの肉体、そして大柄な外国人選手をなぎ倒す空手チョップの迫力に我を忘れて興奮した。この時点で、後に自分がプロレスの道に進むことになるとはみじんも思わなかったが…。

 そして「祭りの後」がやってくる。プロレスの興奮が冷めぬまま帰宅した私を待ち受けていたのは、鬼の形相の父親だ。家族はまるでお通夜のような雰囲気…いや本当にお通夜だったのだ。

 晩酌中の父は「征二、そこに座れ」と、私を正座させ、しばらく無言のまま。その晩はこっぴどくしかられたものだ。

 私にとって、初めてのプロレス体験は、力道山の空手チョップに対する興奮と祖母の死、そしてお通夜を抜け出して会場へと足を運んでしまった背徳感…。今も何とも言えないホロ苦さとともによみがえってくる。

ペンとマイクのシャープ兄弟

 翌年の4月。久留米市立櫛原中学校に入学した時点で私の体は、すでにかなり大きかった。180センチ近くはあったはずだ。この頃の写真でもあれば、ぜひ読者の皆さんにお見せしたいところだが、残念なことに、私の手元には存在しない。その理由は、いずれまた後述させていただく。

 中学生にしては破格に大きかった私は当然、柔道部やら陸上部、バレーボール部、他にも様々な運動部から誘われ、遊び半分で、練習に参加したりしていた。

 だが、どのスポーツにも、それほど本格的に熱中していたワケではない。あくまで遊びの延長に過ぎない。だから自分の中で柔道を始めたのは、中学時代ではないとしている。中学時代のアレはあくまで“柔道ごっこ”に過ぎない。私が本格的に柔道と出合うのは、高校に入学してから…いや、中学を卒業してからなのだ。

 そして、中学卒業を控えたある日、私の運命を変える決定的な“事件”が起きる。まあロクに勉強もせずに毎日、遊んでばかりいたツケなんだが――。

高校浪人のときに出会った柔道

 昭和32(1957)年の春。中学卒業を控え、高校受験となった。私は姉や兄たちと同じ道をたどるべく、地元の県立高校を受験した。

 ところがだ。結果はまさかの不合格…。わざわざ滑り止めの高校も受験していなかった。遊びに夢中になっていたツケが出た。今はどうだか知らないが、当時としては、かなり珍しい「高校浪人」となってしまった。

 浪人といっても、当時の久留米にはまだ予備校なんてシャレたモノはなかったはずだ。特にやることもない私は毎日、店を手伝ったりしつつ、何となくブラブラする日々が続いていた。

 そんなある日のこと。久留米市内で柔道場を開いている深谷甚八先生(故人)という方に会うこととなり「道場へ来い」と誘われた。

 身を持て余した浪人中の身。先生に誘われるがままに町道場へと身を投じた。私の素質を高く評価してくれた深谷先生は「とにかく来年4月になったら南筑(久留米市立南筑高校)へ来い」と誘ってくる。深谷先生は南筑高校の柔道師範だったのだ。

 こちらは高校受験に失敗したばかり。ところが深谷先生は「(柔道で)強くなれば推薦で高校には入れてやるから」と甘い誘いをかけてくる。まあ、今さら一生懸命、勉強するのも嫌だったんで、深谷先生のおっしゃる通り、存分に柔道に没頭した。だから、私が本格的に柔道を始めたのは「中学卒業後、高校入学前」という空白の浪人期間中ということになる。以降、半世紀にわたる格斗人生のスタートだ。

1965年の全日本柔道選手権で相手に払い腰をかける坂口氏(右)

 それから毎日、深谷先生の道場に通い、柔道のけい古を続けた。そして年が明けた昭和33年春、一応はキチンと願書を出して南筑高を受験した。結果は先生の予告通り、見事に合格。1年遅れの高校生活がスタートした。

 南筑高校は昭和23年に私立高校として開校。その後、昭和27年に久留米市立となったばかりだった。まだバンカラ気質が残り、男女別学が主流だった当時としては、共学校で女子学生もいたし、ややナンパなイメージがあった。だいぶ時代は後になるが、後輩にはチェッカーズのメンバー(藤井フミヤ、鶴久政治)もいたはずだ。

鶴久政治(左)と藤井フミヤは高校の後輩

 学校のイメージこそナンパだが、入学した私に待っていたのは朝昼晩と柔道漬けの生活だ。何しろ朝は自転車で片道30分かけて登校。授業の後は午後4時から午後6時まで、たっぷりと柔道部のけい古。そして私は学校の帰り道、今度は深谷先生の町道場に寄って、夜7時から9時までけい古漬けの日々を過ごす。

 高1で初段、高2で2段、高3で3段と、メキメキと強くなるのを実感する高校生活。楽しみといえば、けい古の帰り道、屋台で食べるラーメンだけだった。今も九州ラーメン、特に久留米ラーメンは大好物だ。私にとって、まさに“青春の味”だ。

高2で柔道全国制覇、高校3冠

 南筑高校入学と同時に始まった柔道漬けの生活。師範であり、私を柔道へといざなった恩師・深谷甚八先生の指導はとても厳しかった。そして的確だった。

 昭和34(1959)年、高校2年の夏。南筑高校柔道部は創部5年目にして全国高校総体(インターハイ=当時は団体戦のみ実施)で、初出場初優勝の快挙を成し遂げる。その総体は地元・福岡での開催だっただけに喜びもひとしお。一躍、南筑高の名前が高校柔道界に知れ渡ることになった。

東京五輪で戦う杉山恒治(サンダー杉山=左)

 後で知ったことだが、前年の優勝校は愛知の東海高校。東海高を率いて「技術優秀選手」に選ばれた杉山恒治選手は、後に明治大学、そしてプロレス界の先輩にもなるサンダー杉山さんだ。杉山さんは大学でレスリングに転向して東京五輪に出場することになるが、私があと1年早く高校に入学していたら、高校総体で対決が実現していたかもしれない。

プレ日本選手権で実現した坂口vs杉山(78年11月、新日プロ・勝田大会)

 当時の九州、特に福岡県は柔道の激戦区。何しろ全国大会上位の常連である久留米商業や嘉穂高が同県内に控えているのだ。全国大会で上位に進むよりも、まずは福岡県大会を勝ち抜くことが至難の業だった。

 我が南筑高は予選(上位2校が出場権獲得)で敗れ、3位に終わったのだが、直前に沖縄代表校が都合によって欠場したため突如、欠員補充で出場が決まったのだった。初出場ながらトントン拍子で準決勝で強豪・天理高に勝利。そして決勝で盈進商(現・盈進高=広島)を破り、初出場初優勝を達成した。

 金鷲旗でも優勝していたし、秋の国体(東京)も福岡県代表として出場し優勝。この年、南筑高は「高校3冠」を達成したことになる。柔道漬けの生活は苦しかったが、確実に成果を上げた。国体が終わってからも私は、1か月にわたって東京に居残り、お茶の水にある明治大学柔道場で練習を続けていた。そこには神永(昭夫)さんや、重松(正成)さんといった、名だたる全日本のトップクラスの強豪が練習していた。高校2年で全国制覇。特に体が大きかった私は、もはや高校生相手のけい古では物足りなくなっていた。夏休みを利用して奈良の天理大に練習に行ったり、普段も授業を午前中だけで切り上げて、午後から福岡県警に出げい古に行き、全日本級の猛者たちにけい古をつけてもらう日々が続いていた。

東京五輪でヘーシングに敗れた神永昭夫(右)

 そして高校3年の夏。柔道部のキャプテンとなった私は高校総体の連覇を目指し、燃えに燃えていた。だが前年優勝の南筑高は県予選の決勝で久留米商に敗れて出場すらならず。県予選で我々を破った久留米商は、当然のように全国大会で優勝した。

 一体、何がいけなかったというのだ? 身近な目標を失い、ぼうぜん自失となった私は、ある大胆な行動に出た。すべては強くなるためだった。

高3の夏、明大柔道部合宿に押しかけ参加

 高校3年になった私は高校総体連覇に向けて燃えていた。だが県予選で久留米商に敗れてしまったため、夏を前に早々と目標を失った。

 私は高校の夏合宿を終えると一大決心を固め、公衆電話へと向かう。電話をかけた先は、秋田県男鹿市で合宿を張っていた明治大学の柔道部だった。明大柔道部にちょうど久留米出身の先輩がいたため、その先輩を頼り夏休みを利用して明大柔道部の合宿に潜り込もうと考えたのである。

坂口氏は自然と明大進学の道を選んでいた(写真は明大柔道部時代)

 先輩の了解を得た私は学校側や親父に相談すると、直ちに荷物をまとめて秋田へと向かった。お盆の帰省ラッシュの中、博多から東京まで急行列車で23時間。上野に出ると、さらに超満員のスシ詰め状態となる急行列車のデッキに座って、さらに10時間。まだ汽車に冷房などなかった時代。ムシムシとした列車内の暑さ、ドクドクと流れる汗が忘れられない。

 だが当時の私は、とにかく強い相手と練習を重ね、強くなることしか考えていなかった。高校生の分際で自ら電話をかけて、国内で最高水準を誇る大学の合宿に乗り込んでいくのだ。今、考えても私の中のどこにあれだけの熱いエネルギーが存在したのか?やや不思議な気もするほどだ。

 まあ、そこまで自分を追い込んだにもかかわらず、秋の国体でも優勝を逃してしまったが…。

 正直、当時は燃える心とは裏腹に肉体的には絶不調だった。夏の練習中、ある先輩に畳のヘリの角材めがけて叩きつけられ、腰を痛打し負傷していた。腰にゴムチューブを巻きつけ、その上からサラシを何重にも巻きつけ、ごまかしごまかしけい古を続けていたのがアダとなった。

 この時代、まだケガに対して「休む」とか「安静」という発想はない。18歳時の無理がたたり、以降も腰痛は私の格闘人生を微妙に左右していくことになる。

 国体が終わり秋風が吹き出すと、そろそろ高校卒業後の進路について考えねばならない。だが柔道での実績が評価され明治、日大、天理をはじめ、各大学からの誘いが殺到していた。

 私自身は、先輩のツテで頻繁に練習させていただいた明治大学に進むことを決めていた。いや、自分の意思以前にもう明治に進学することが、あらかじめ決まっているようなムードだった。何しろ年明けにはもう赤羽にあった明大柔道部の合宿所に入り、御茶ノ水の道場に通い、大学での練習をスタートしていたのだ。

明治大学

 月謝も必要ないスポーツ特待生枠での受験。一応、2月に入学試験があるため、合宿所で試験勉強らしきものはさせられ法学部、商学部、経営学部を受験した。まだ合格もしていないというのに、すでに明大柔道部の一員のような顔をして合宿所住まいだ。

 高校受験で、まさかの浪人を経験しているだけに「本当に大丈夫かいな?」と不安もあったが、今度は無事に法学部法律学科に合格。晴れて正式に明治大学の学生となった。

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さかぐち・せいじ 1942年2月17日、福岡県久留米市出身。南筑高、明大、旭化成の柔道部で活躍し、65年の全日本柔道選手権で優勝。67年、日本プロレスに入門。73年、猪木の新日本プロレスに合流。世界の荒鷲として大暴れした。90年、現役引退。新日プロ社長として東京ドーム興行などを手がけ、黄金時代を築いた。2005年、坂口道場を開設。俳優・坂口憲二は二男。

※この連載は2008年4月9日から09年まで全84回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全21回でお届けする予定です。


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